「やさしい日本語」へのアプローチ/私の場合
【2022.6.27追記】やさしい日本語(に限らず?)を駆使したやりとりにおいてスキル以前に大切なのは、「伝えたい/わかりたい」気持ちは当然として、まずは相手の気持ちを汲むこと。または状態をスキャンすること。
それは、第三者に対する忖度とも、脅迫的な空気読みともまったく違うものだ。「配慮」も、私の感覚ではちょっと違う。なぜなら、相手も私も「伝え/受け取る」ことに必死で、そんなことしている余裕はなく(あるに越したことはないと思うけど)、大袈裟に言えば喫緊の死活問題であったりすることだってあり得るので。
大袈裟ついでに更に言うなら、それは、何らかの事情で不可視化している/されている対象を可視化するべく、様々なレイヤー上で無限に拡がっているグラデーションを具体的に、瞬時に見透すこと。すなわち、ない/なかったことにされている世界を取り戻すための作業(たぶんホルスの右眼の仕事)にほかならないのです。
私の場合「多文化共生」と聞いてまず思い浮かぶのは、厳島神社の海の鳥居前のみやげもの屋で買った玩具のヌンチャクだったりするんですが_(0)参照_それはさて置き。
初めて「やさしい日本語_(1)参照_」という言葉を目か耳かにしたのはいつ頃だったか、はっきりしないけど、初めて「やさしい日本語とはこれこれこういうものです」という話を聞いたのが、だいたい3年ほど前。当時受講していた日本語教師養成講座の中でのこと。阪神大震災の時、日本語非母語話者は、緊急避難情報をよく理解できないために逃げ遅れてしまうケースが多かったのでその反省から……。なるほど、そういった経緯あってのことなんですね。
そして、420時間の日本語教師養成講座終了後、私は単品で「やさしい日本語講座」を受講することにした。本来の目的(この言い方も結構アレなんですけどね)以外にも、例えば自動翻訳を利用する時やなんかに活かせそうとかいくつかの動機があって。更にそれからもオンラインの講座を受講し、「入門・やさしい日本語」認定講師となりました。
(↓こちらに私の名前も掲載されております)
さて、先日の報道_2月4日の朝日新聞の記事を引用_によると、
『2040年に政府がめざす経済成長を達成するには外国人労働者が現在の約4倍の674万人必要になり、現状の受け入れ方式のままでは42万人不足するとの推計を国際協力機構(JICA)などがまとめ、3日に公表(以下略)』
ある程度予想できていたとは言え結構な衝撃で。その頃には「機械的」単純作業や単に仕事を割り振るだけのブルシットワークの大部分を人間以外の何かが担うようになっている。という楽観的な近未来を無理矢理イメージしようとしたが、なぜかそれも難しく、若干厭世的な心境になった私は、「労働者」というのは労働力ではなくそれを提供してくれる「人間」であること、できれば「家族」を連れて来日したいという人が多いであろうこと、おそらく就労者でない家族の人数はカウントされてないこと、子どもの場合「教育」を受ける機会は保証されているのか、その内容はどうなのかetc.と、ますます、あまり楽しくない連想が止まらなくなった。
何、この国の全土が入管な訳でもないし、日本て、そこまで酷い国とは思われてないよ。と、思おうとした途端、何度も目にした「外国人」は日本を必ずしも「住みやすそうな国」とは思っていないことを客観的に示す統計データのアレやコレやを想起してしまい、ますますネガティブモードに。
とか何とか言いつつ、少なくとも、アメリカでplain English(ざっくり言えば「やさしい英語」)の必要性が高まっていった経緯とはまるっきりあべこべの展開_(2)参照_ながら、今後ますます「やさしい日本語」が必要とされることだけは必然の成り行きとしてあると思われ。
蛇足ですが、「やさしい日本語」は私の言語観_(3)参照_に結構な変更を加えた。人間の「認知圏」と「言語」の間には、密接な結びつきがある。だがしかし、一方で私は「言語の支配を受けた認知圏の外側」の領域にいつも気づいており、必要に応じて/その時の気分で「無限の外へ出る」ことをライフワークとしている一修行者つもりでもあります。
(0)ヌンチャクと異文化交流
海の鳥居前のみやげもの屋で私が買ったヌンチャクは、いかにもちゃちいものでしたが、それ以上に、「NINJA」の文字やイラストが金で描かれているなど何か変_下のYoutube動画参照_。まあ、昔からみやげもの屋は不思議なアイテムの宝庫ではあるけど、それにしても凄い。こんなふうに異文化間の誤解というのは広まっていくのだろうな、などと思いつつ一方で、例えば、アジア以外からの外国人観光客に対して、
「それ、間違ってるから」
などと言ってのける資格が、果たして私たちにあるのだろうか?
東洋のエンターテイメントについて話している中で「カンフー」と「ニンジャ」が交差しても何ら不思議じゃないし、何か問題があるとも思えない。忍者ヌンチャクは、実現しなかったブルース・リーとショー・コスギの夢の共演などを妄想させるアイテムでもある。
(1)「やさしい日本語」関連のおすすめ本
私が知る範囲で、「やさしい日本語」て何? に最もストレートに答えてくれる本。
実践トレーニングならコレ!
(2)「やさしい英語」と「やさしい日本語」
あらゆる規約の文章を、英語非母語話者含むみんなが理解できるようplain English_ざっくり「やさしい英語」_で書きましょう。1978年に時の米大統領ジミー・カーターが署名した大統領令12004の内容は、ざっくりそんな感じのものだったらしい。plain English_ざっくり「やさしい英語」_が「既に(英語)非母語話者が大勢住んでいた」アメリカで必要とされたのに対し、日本では、「これから大勢の(日本語)非母語話者の人たちに来てもらう」ためにも「やさしい日本語」が必要とされている。
(3)ざっくり私の言語観
☆人間の思考は「言語のみによって」なされるとまでは言えないが、大部分は言語によってなされる。
☆ただし、「世界全体(註1)」や「その中のすべての事象」を(ラングとしての)言葉で指すことはできない。
☆言語が認知圏を形成する。言い換えれば、言語は「認知の限界」や「認知の歪」を生み出している(註2)。
☆それぞれの認知圏において、「指すもの」と「指されるもの」即ちシニフィアン/シニフィエのペアは、階層性を持って存在している。
☆シニフィアンには、実体を指すものと、何の実体も指さない「シニフィエなきシニフィアン」または「別レイヤーのシニフィエを指すシニフィアン」がある。
☆言語は「コミュニケーション」のツールであると同時に「ディスコミュニケーション」のツールでもあり、「伝える」だけではなく「隠す」「誤魔化す」「騙す」などの役割を果たす。
☆「隠す」「誤魔化す」「騙す」目的で言語を使用する場合、「伝える」以上に高度な熟練が要求される。
☆「やさしい日本語」は、「伝える」目的に特化した日本語だと言える。
註1)『世界はもろもろの事実によって規定されている。さらにそれらが事実のすべてであることによって規定されている。』
L.ヴィトゲンシュタイン,坂井・藤本訳『論理哲学論考』法政大学出版局,1968 p61
註2)サピア・ウォーフの仮説として『人間の思考は言語によって決まる』という日本語のフレーズが独り歩きしている感があるが、ウォーフ自身は「言語は認識に影響を与える思考の習性を提供する」としか述べていないそう_wikipedia「言語的相対論」の項参照_。
ちなみに「サピア・ウォーフの仮説」は「サピア・ウォーフさん」という一人の人物による仮説ではなく、「サピアさん」と「ウォーフさん」が唱えた説ということらしいので、ウォーフさんは上記の通りだったとして「サピアさんの方は何と仰っていたのか」も気になるところではあります。
↓ヌンチャクから語り始めてみた動画(一昨年のものですが)