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遠方では時計が遅れ、ここでは言葉が遅れている

【2022.6.25追記】
今までなかったモノや、知らなかったコトを、既知のコトバを使って伝え合い、それらを巡って話し合う。明らかな無理ゲーにも思えるが、曲がりなりにも何とかなってしまっているのがコトバの凄いところ。何でか?
コトバの世界の外に出ないと、コトバのことはわからない。少なくとも、起こっている事象を「神視点」から俯瞰し、客観的に理解することは困難に思える。
「コトバの外へ出る」必要性は、例えば「言外の意味」について考えてみれば明らか。なんじゃないかな。

スーツ姿の旧友の唐突な変顔がトリガーとなり、色とりどりの雑多な記憶が次から次へと呼び覚まされた。まるで、タロットカードを高速シャッフルしたように。あるいは、全国津々浦々から地道に集めた貴重な映像素材を無茶苦茶なカット割りで繋ぎ、雑過ぎる編集でエイヤ!と仕上げた動画のように。

上記例文中二つ目のセンテンス冒頭即ち『まるで』以下、二つ目の『ように』までのごちゃごちゃした表現を、『走馬灯のように(1)』の一言で言い替えることができる。ほお。ところで、走馬灯て何よ?

上記は、受け手側が、相手から受け取った慣用表現の中に出てくる「物」についての知識を持たないため、「〜のように」と言われてもさっぱりイメージが浮かばないケース。

物だけではなく「人名」の場合も、その人について何も知らないとイメージの浮かべようがない。あるいは、「何だかワルそう」「スケベそう」などと音や字面の印象から勝手に膨らませたイメージは、得てして話者/筆者が伝えたかったことから大きくかけ離れていたり。

『弘法も筆の誤り』なんかも、かなりややこしい。このフレーズの場合、人名から喚起されるイメージの問題に加えて「筆の誤り」の部分も、果たしてラング的に(2)どれぐらいの範囲で共有されているのか興味あるところだが、「失敗してヘタクソな字を書いてしまう」ではなく「誤字をヤラカす」と理解されて困る場面では、使わない方が無難だろう。場面うんたらに関係なく、私はそもそも使ったことないけど_理解語彙に含まれるし使用可能語彙でもあるが、使用語彙ではない_。

(書道の達人である)弘法(大師)も筆の(運びを)誤り(ヘタクソな字を書いてしまう場合もある)。

今( )内に補った言葉こそが、いわゆる「言外の意味」であり。省略の多いハイコンテクスト言語(3)としての日本語は、言葉によるコミュニケーションの前提として、使用者に対して、この部分について共通の理解を要求する。みたいな説明がなされているようだが、かなり乱暴なまとめ方だと思う。そんなものは、話法やフレーズによるので。

まあそれはともかく、『弘法も筆の誤り』は、次のようにもデコードすることができる。

弘法も(=成績優秀なひろのりクンですら)筆の誤り(=難しい漢字を書き間違えてしまうことがある)。

恣意的に誤読してみたけど、不思議なことに、伝えたいことの核心部の意味は変わっていない(と思う)。私が、日本語を「オカルト言語」認定する所以である。

日本で、または日本語文化圏において、そこそこの範囲でそこそこ長く共有されてきたであろう故事ことわざフレーズに限らず、「言葉が遅れる」現象は単語レベルでも頻繁に見られる。

私がよく挙げる例に「テープ起こし」がある。「録音された音声を再生しながら人力で文字データに変換する作業」即ち「テープからの文字起こし」を指すが、今や「テープ」からそれを行なっている人は特殊なケースを除いてまず居ない。なのに、言葉としては「データ起こし」でも「mp3起こし」でもなく、「テープ起こし」のまま。まあ、あえて変える必要もないっちゃないんですけどね。

このように、「言葉が遅れる」現象は、記憶媒体やデータ形式など、情報関連のデバイスやテクノロジーに関するワードにおいて多く見られる。

だが、慣用フレーズ中にちょいちょいわからない単語が出てきてたとしても、気にするには及ばない。大切なのはディテールではなく、全体としての意味の方なのだから。

さて、「テープ起こし」は使用シーンの限られたワードだが、「走馬灯のように」のように様々な場面で使われ得るフレーズの中に知らない物や人名が出てくると、爽やかに「自分には関係ないから平気だ」とも言いづらかったりすることがある。たぶん、一部でしか通じない言葉よりも、より広く通じる言葉の方が、言葉として重視されるということ。

もう一つ、(カセット)テープよりも走馬灯の方が起源が古くそれなりの伝統とか歴史を伴うのでありがたがられやすい。つまり、最近使われだした言葉よりも、古くから使われている言葉の方が、言葉として重視されるということ。

そんな訳で、流行語の類よりも故事ことわざフレーズの方が、日本語的に重く見られることになる。

だが、両者の違いは、単に流行のタイムスパンの長短に過ぎない。とも言えるし、両者の間には、流行のスパンを異にする様々な語群がグラデーションを描いている。私の考えでは、そこにはいかなる優劣もない。被催眠状態から出て聴いてみれば、それらは豊かなポリリズムを奏でている筈だ。

言葉は古い道具である。

(1)走馬灯のように

「九死に一生を得た」人の多くが、まさにこのように展開するフラッシュバック体験を語る。単純な話、∴人間の意識たらの内容は、断片的な記憶の寄せ集めに過ぎないんじゃないか。と、実はかなり本気で思っていたりする。


(2)果たしてラング的に

ソシュール先生の用語を勝手に拝借し、ややだらしない感じで使っている訳ですが。より多くの相手に対して、つまり社会的に通じる≒共有され得るかも知れない言葉は、グノーシス主義思想の構成要素にも似て、同時代のものではなくより古い時代の産物である場合が多い。


(3)省略の多いハイコンテクスト言語

日本語など「言外の意味」の領域が大きいハイコンテクスト(高文脈)言語と、英語など「言外の意味」の領域が小さいローコンテクスト(低文脈言語)を比較すると、前者の方が、言葉によるコミュニケーションの前提として共有している「お約束」が多くなる。というのが一般論らしい。ところで、英国英語と米国英語(米語?)を比較すると、英国英語の方に「前提として共通の理解を要求される」言い回しが、より多く見られるとか。なるほど、「教養」とはどういうものかが、わかりやすいカタチで表れている。アメリカのように、英語に対してリンガフランカとしての需要が多くないであろうイギリスらしい現象とも言える。日本語についてはどうか。調子に乗って現時点での勝手な予想を書くと、第1フェイズ:全体としての日本語力の低下(または変化)と並行して、やさしい日本語/込み入った日本語の二極分化が進む→第2フェイズ:やさしい日本語/込み入った日本語の間に、やややさしい日本語/ちょっとだけ込み入った日本語といった亜種が無数に現れる。んじゃないか。



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