2月20日(土)多文化共生の敵
もとい。敵ではなく障壁とタイプするべきだった。
1週間の振り返りと数秒前の振り返りを同じ場で行っている。どころか、もっと長いスパンの振り返りも、更には未来を振り返ることすら同時に。それがポリリズム修行というものだろう。平素より自分は、たぶん、多文化共生たらをポリリズムのアナロジーでイメージしている。
ポリリズムのアナロジーとか言い出すと、ゆっくり急ぐ、全力疾走しながら昼寝するなど「速度」の問題、違う物差しを同時に使うみたいな「周期」の問題、別レイヤーの現実がシンクロする瞬間を捉える「タイミング」の問題など、結局まともに説明できたためしがない。
「やりたいこと/できること」「やるべきこと/できること」など漠然と思いつつ、自分の生存の歴史を何十年か振り返るにつけ「多文化共生」たらは割と重要かも知れないキーワードであることに気づき。この、ありふれ方、陳腐な感じこそが、まさに自分なんだろう。
【日本語絡みメモ】
☆川端康成『雪国』の冒頭など特徴的な「主語の省略」、三上章『象は鼻が長い』に見る「主語不要論」
☆「省略可能」か「不要」かは置いといて、「安易なすり替え」の弊害は大きい。ex.私は(こう思う)→日本社会は(こうである)
☆それは「日本語の問題」というより「話者の態度の問題」に思える
☆それによって先入観は強化され、次々と臆断を生む
☆しかも、本人には客観的事実との区別がついていない
☆「やさしい日本語」には「正解がない」わけではなく、「場面ごとに正解が変わる」
☆「世界を小さくして自分の脳内に想定する」ことと「小さい自分が世界(≒他者)を見る」こと
☆前者のアプローチは、脳内仮想敵の設定を誤りやすい
☆エポケー(判断保留)と優柔不断は違う
☆「見ること」と「動くこと」を(ポリリズミックに)同期させること
・・・ホンマにメモやね。