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インプロヴィゼーション-即興(番外篇)

「着地こそが問題なんや」

 ハナザカリくんは即興演奏についてそう言った。または私が言わせた。

 古典落語のサゲのようにきれいに落とす、なんや締まらん感じでウヤムヤのうちに、唐突に、などなどインプロヴィゼーションにはいろんな「着地」が考えられるが、いずれも大団円には程遠く、仮の区切りでしかない。それのどこが問題か。

 端的に言えば、着地した自分は既に、インプロヴィゼーションを開始した時の自分とは別の何者かだということ。

 違う景色を見ること、発想を変えて違う切り口を見つけることはうんぬんなどと、自分の尺度に合わせて都合良く話を矮小化したんじゃつまらない。「別の何者か」になりたくない即ち「ブレない」ことだけに価値を置き、そこにすがりついていたい向きは、悪いことは言わないからインプロヴィゼーションなどやらず、ひたすら旧来からのアルゴリズムに従われるのが得策でしょう。

 インプロヴィゼーションを試みる。即ち、興してみると、まぎれもない自らの「意志」によって、結局は「他者(性)」や「偶然(性)」を呼び込んだことに気づく。その時垣間見た世界の断層を入口に、哲学で言う「自由意志」の問題を考える、文法カテゴリの「態」の問題を整理する、などなど、いろんなきっかけにはなり得るでしょう。

「道路に面して、三軒の家が並んでいる。それぞれの家には、カタカナを彫った変な表札が上がっている。向かっていちばん右の家から、フリーインプロヴィゼーション、アルゴリズム、チャンスオペレーション。三軒の家が面している道路は、どこまでも真っ直ぐ、果てしなく延びている。と思ったら、神はこの界隈の曲率を著しく高めたもうたとかで、道路の端は、隣り町のどっかでくっついとって、サーキットを形成している。だから、アルゴリズムに変更を加えようと思うなら、即興と偶然によるしかないんや」

 三権分立から何年か経った今、常識となりつつある三軒隣立のお話です。



(「一千一小節物語」番外編)

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