6月3日(木)かのように/目の前に
土曜じゃないけど、夏の夜の振り返りを。
先々週ぐらいか、「リアル/アストラル」のペア_勝手につくったものですが_について触れたんやけど、今日は「存在entity/概念concept」界隈をつついてみる。
もうちょっと遡って。日本語教師とかやってるんだから、近現代の日本文学史をなぞるぐらいのことは、もう少し自主的にやっても良いんじゃないか。取り敢えず「ちくま日本文学全集」を全巻読んでみよう……みたいなことを4月に書いているが、そっちの方はあまりというかさっぱり進んでません。が、自分の知らなかった森鷗外作品『かのように』(☆1)という短いめのを読んだことで、どちらかというと言葉にしにくかったりしたくなかったりするような領域、つまり「存在entity/概念concept」界隈の何やかやに、たまには少しぐらい触れても良いかという気になった。以下、原文の味わいを損なわないよう変な言い換えを避けカットアップ要約:
神話と歴史を/分けると/神霊の存在は疑問に/祭やなんぞが皆内容のない形式に/当たり前だとして、平気で/子供に神話を歴史として教え/同じく当たり前だとしているの/神話と歴史とを/別にして考えていながら/わざと/交ぜて/教えて/怪しまず/ただ俗に従って/昔神霊の存在を信じた世に出来/今神霊/信ぜない世に残っている風俗/現状を維持/滅亡/頓着しないのでは/自分が信ぜない事を/信じているらしく行/疚(やま)しがりもせず/子供の心理状態がどうなろうということさえ考えてもみないのではあるまいか。
どうでしょう。微妙な問題を、無駄に韜晦な物言いを避けつつ、輪郭のくっきりした明晰な言葉だけで綴る書きっぷりは流石です。
まあこのへん、神話と歴史を「レイヤー違いのリアリティ」として俯瞰的に捉える。というのが昨今の「一般的な」態度かなとは思うんですが、白状すると、自分の場合困ったことに、それをやると対象のリアリティが一気にしおしおと下がってしまい、すべてが単なる屁理屈に堕してしまう。
抽象的な言葉が分からない使えないというのは、語学的には「初級レベル」のままということなので、いろいろと不便で社会生活も困難になりやすい。
そこはまあ、わかってはいるんやけど、抽象的≒概念的な理解(☆2)だけでは満足できない、と言うよりそんなもんいらんわ。となってしまう。
概念的でリアティのない対象に向かって祈り、赦しを乞うなど、やはり自分には無理で。
娘や配偶者といった、赦しを乞うべきリアルな存在entityが身近に在るというのは幸せなことなのかも知れない。
☆1)『かのように』:
ちくま日本文学全集 森鷗外 p105〜153
「倅」が留学先からよこした手紙を読みつつ、子爵はあれこれ思う。という設定だが、その内容は、宗教≒スピリチュアルがらみの問題に対する鷗外先生自身の葛藤と受け取って問題ないと思う。「祭をする度に、祭るに在(いま)すが如くすという論語の句が頭に浮かぶ」の箇所に、自分は19世紀イギリスの魔術師の発言_神霊(的な存在)が本当にいるかいないかは置いといて、いる「かのように」行えば儀式はうまくいくという話_などを想起した。作品中の子爵≒鷗外先生の態度は、ヨーロッパの科学的啓明主義に近い。
☆2)抽象的≒概念的な理解:
料理やお菓子のおいしさについて、性交時の快感について「抽象的≒概念的」に言葉を尽くして語る「だけ」……。それがどれだけ虚しいものか、容易に理解いただけるものと思う。同様に、「HGAとは何か」を「抽象的≒概念的」に言葉を尽くして語る「だけ」というのもしかり。∴conceptではなくentityとしてアプローチする必要がある。んだと思うよん。