09/30 難易度とプレイ単価
子供からして、数千円もするゲームソフトは、簡単に買い替えられない貴重な存在でした。そのため、ゲームの寿命、つまり長く遊べるかどうかは、少年たちにとって重要な判断基準でした。ネットも攻略サイトもない時代、攻略情報はゲーム雑誌や攻略本、友達からの断片的な情報だけ。まさに手探りでゲームに挑む冒険だったのです。
そんな状況だからこそ、高難易度ゲームも「長く遊べる」というポジティブな解釈で受け入れられました。難所を突破できた時の達成感、手探りで得た攻略情報は、他の何にも代えがたい喜びをもたらしました。しかし、この「長く遊べる」という美徳は、ある種の歪みを生み出しました。
理不尽な難しさ、バグまみれでプレイ不可能なゲーム、常軌を逸したゲームデザイン…ファミコン時代には、そんな「狂った難度」を誇る作品が数多く存在しました。これぜってーテストやってねーわというものも。敵の攻撃が殺意に満ちているのはまだ序の口。中には、熟練のゲーマーでさえトラウマを抱えるような、極悪なゲームも少なくありませんでした。
アーケードも本当に初期は海賊版が跋扈した業界ですから、ひどいものもありました。ただやっぱりそこまでひどいと基盤が売れないのでしょう、最低限は保たれた気がします。しかし家庭用やパソコンゲームは売り切りなので詐欺同然のものも横行していました。
とはいえメーカーも、このような「苦行」のようなゲーム作りは行き過ぎだと気づき始め、時代とともに理不尽な難易度を持つゲームは減少していきます。ゲーム技術の進化や洗練も、無茶な冒険作やバグまみれの作品を減らす要因となりました。
あの頃の「狂った難度」は、今では懐かしく、ある種の「味」として語られることもありますが、理不尽な難しさに耐えかねて淘汰されたゲームも多くありました。 高難易度と、理不尽な難しさの間には、明確な境界線があったのです。これは踏まえておく必要があります。理不尽な難しさとはなんなのか。
2回くらい前の記事でも難易度の話をしましたが、下手すると「理不尽な難しさ」も配信を通すとネタ化してしまう危険性は確かにあります。観客がいるというのはそういう意味ではちょっと違う意味で怖い話ですが。
アーケードゲームは、面白い仕組みです。だいたい100円で5分くらい遊べるよう設計されています。あっというまにやられてゲームオーバー、短すぎると客が不満に思いプレイされず、長すぎると筐体が専有され採算が取れない。
家で遊ぶゲームはまた別です。5000円くらいでパッケージを購入するとして、アーケードの基準で計算すると4時間ちょっとくらい遊べれば元が取れる計算になります。4時間って結構長い。しかし実際はもっと長い。ゼビウスは1周15分くらいですが、ドラクエ1は6時間とか10時間とか。RPGは非常にお得感があります。
でもこれって最期まで遊ぶ前提の考え方なんですよね。よっぽどでなければ家庭用はクリアを前提にプレイ時間を計算する。途中でゲームオーバーにすることを前提にしているアーケードとは難易度の考え方が根底から違います。
家庭用ゲームはゲームオーバーに「してもしなくてもいい」んです。
この「しなくてもいい」というのが厄介で、「楽しませるためにはゲームオーバーは必要ない」というところに行き着いてしまいました。特にRPGは。
家庭用ゲームは市場を広げるためにゲームオーバーを捨ててきたわけです。
レールプレイングゲームとか一本道とか言われるようになるわけです。
なんか非難してるような文になっちゃったな。違う違う。
ゲームが高難度であるということは、ゲームオーバーになりやすさも高いということです。すなわちプレイ時間(ラン)が短くなること。サクッと始められ短い時間で成果を出せるというプレイスタイルは、現代ではまた高い価値を持つようになってきたと思います。
アーケードゲームの高難度とは目的が違いますが、これが正しい「ゲームの難度である」と思えるようになりました。
もしかしたらスト6のような格ゲーが再度ブームを起こしたのも必然なのかもしれません。
高難度を前に、プレイヤーは嫌気がさしてやめてしまうかもしれない。
しかしきちんと再プレイ性を確保されたデザインであるならば、リピート率が高まり、しかしやはり「クリア」はできず、何度でもプレイしてしまう。よく言う中毒性の高いゲーム。この高難度と再プレイが現代におけるゲームプレイの価値と言えるようになったのではないか。
一回も死なずに最期まで何十時間も用意された話を見続けさせられるのとは明らかに価値観が変わってきている。
多分同じAAAの開発費を掛けても、ここを見誤ったままだと、
ゲームである意味を失ったままだと、大変なことになってしまうのじゃないかと思ってしまいます。
進捗も一応書いておこう。モンスターのモデルを少し増やしています。
また明日。