非日常を日常に見る(1)

朝から、連れ合いは、iPadをひざに置いて、テレビに釘付けになっている。パリで起こった銃撃事件は、日常のルーティーンを変えるに足りるインパクトを持っていた。パリでは、今日、Airbnbのコンファレンスが開催される予定で、ネット上で知り合った何人かの日本のAirbnbのホストや、サンタモニカのAirbnbのMeatUpに来ていたスーパーホストの老夫婦も、今いるはずのパリ。他にも、多くの大規模なイベントが開催される予定だった11月のパリ。そういえば、私が初めて海外旅行に行ったのも、11月のパリだった。母のサイドビジネスの招待旅行で行った秋のパリは、やさしく、輝いていた。そのパリが今、テロリストのターゲットとなり、町中が恐怖に包まれている。

「こんなふうに戦争に突入していくんだ」パリにいるクリエーターがつぶやく。

「地球上に安心して住めるところはなくなってしまったのでしょうか?」パリ在住の元女優が、子供を抱いて、震える。

「予想していたことが起きてしまった」まだ記憶に新しい、パリの新聞社を襲ったテロの後、その対策として訓練を重ねていたフランス警察のトップが肩を落とす。

弾丸を放つテロリスト達の様子を観察していた機動隊が「彼らは冷静に任務を遂行していました。自信を持って」

昨日、目に留まったイスラム国の本の書評は、「今のテロリストを、熱狂的な宗教に踊らされた組織だと見るのは間違いだ。彼らの経済的基盤、戦略は、現代のテクノロジーを駆使している」と、驚きと恐怖に満ちていた。

探せば探すほど、ネガティブな情報は真実味を帯びてくる。これって、かなり絶望的じゃね?と、キーボードを打つ手を止めて、しばし、外を眺めて見る。南カリフォルニアの能天気な日常がそこにある。

私はこれから藍染のワークショップに行く準備をする。

いつも手伝っている花屋のオーナーがテキストしてきて、孫のシーズン最後のサッカーの試合があるから、店番してくれと言う。無理。1時間ほど、店を閉めて行ってください。

ワークショップを優先して、欠席することになった山口県人会の世界大会のオーガナイザーから連絡が入る。はい、行けません。

拾ってきたカウンターを塗って作った屋外のテーブルで、朝ごはん。連れ合いは、まだiPadを離さず、テーブルに置いて、ニュースをチェックしてる。

「アメリカで何か起こっても不思議じゃない」

火種はベルギーにも飛んでるようで、明け方のヨーロッパは、まだ騒然としている模様。世界一斉テロを思わず想像してしまう。

この平和な日常が、どんだけのもので支えられてるかを、実感せざるを得ない。

テロリストの存在は、軽いジョブのように、その最悪シナリオを無意識に想像し始めた脳から発生するイメージで、心を叩き続ける。簡単に絶望してしまう心に、「おい、待て」と脳がつぶやく。

「これ、どっかで経験してないか?」

あぁ。原発事故の時だわ。

「世界中が放射能で汚染されてしまうー!」「安全な場所なんて、もうないよ」「日本政府なんて信じられない!」「みんなオカシイ。世の中の人は何も気づいてない」

この絶望音頭の中で、あたふたと走り回り、訳のわからないまま、絶望する人たちのお世話をしたり、いろんなプロジェクトに関わったりするうちに、私は、ひとつの結論に辿りついた。

ゴジラになろう。

絶望に振り回されて暗い日々を送るより、放射能にまみれて、これが自分が変わるチャンスだと思う方が、日々の生活は少なくとも幸福である。放射能と縁を切った瞬間である。それと、そもそも、原子力を必要としない生活というのであれば、それを実践すればよい。反対するよりも、自分でそれをしてから、本当に反対運動が必要だと思えば、すればよい。とも思った。反対運動というものから一切手を引いた。

あれからもうすぐ5年が経つが、その間に、いろんな勉強をする機会があって、脳化学や、TED、ポッドキャスト、体の使い方など、自分が引かれるものに、身を任せていたおかげで、どうやら世界は自分で作るものであるという確信が持ててきた。

パリのニュースに、自分は、自分の体はどう反応しているか?

これは、私にとって、非日常なニュースであるか?これは予想できたことか?もし出来てたなら、どういう理由でか?

ISという存在が、自分の中にあるとしたら、それはどんなふうに解説できるのか?

そんなことを、晴天の土曜日、カリフォルニアらしい秋の日の日常で考えてみようと思う。

つづく@ワークショップ、行ってきまーす









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