Amsterdam
おまけのような祝日の月曜日。
突然、自分の部屋の模様替えを始めた。
新しい物語を始めたかったから。
そして、奇しくも、そんな日に、
自分の過去の物語の一つを思い出す出来事があった。
Amsterdam -アムステルダムというタイトルのドラマ。前日の「Across the universe」がヒットだったので、また面白いエンタメが見たくなってた。HBOのメニューで、その文字を見た瞬間に、「メキシコシティのアムステルダムだ」と直感した。間違ってなかった。私が一時、マリコさんと一緒に住んでいたペントハウスがあった通りの名前。
ドラマは、コンデサ地区に住む若いカップルの話で、
音楽家の彼がアムステルダム通りで、真夜中に限りなく近い朝に見つけた犬をアムステルダムと名付けて、二人で飼うところから展開する。
物語自体は、ごく普通のメキシコのヒップなカップルのありふれた話だが、アカデミー賞を取った「Roma」と同じく、私の体は、画面の中に漂うメキシコシティの、あの空気を五感で感じようと、オートマチックに全開になっていく。
側にあった携帯の地図のアプリでメキシコシティを検索する。「あった」アムステルダム通りを確認する。「そうだ、パルケ・メヒコから2番目のサークルの道。」学生だったマリコさんと、スペインに行く予定が、何故かメキシコで足止めを食らって、ずるずると暮らしている、半分旅人の私が住むには、ちょっと高級感のあるセキュリティ付きのマンションが立ち並ぶエリア。
駐在員の家庭のベビーシッターしたり、日本語の学校で先生をしたり、ほとんどその日暮らしのような生活だったが、物価は安く、なんとか生きてた。
80年代、日本はバブルの真っ最中。初めて住んだ異国。「征服した国より、征服された国の方が面白いよ」という4つ年上のマリコさんがいう。
理由はいらない。何もかもが目新しかった。時間はたっぷりある。1年半の間に、私は、メキシコシティの中で、何度も引越しをした。
最初は、宇田さんに紹介されたトラテロルコのアルベルトの家、そして、マリコさんが居候していたナルバルテのフェデリコの家へ、それから、自分で探したソナ・ロサの食堂の横の壁の面積が床より広い貸し部屋、ホテルにも何回か長期滞在した。アムステルダムの家は、マンションの屋上、13階だったかな?まだ工事が完全に済んでいないコンクリートが打ちっぱなしのペントハウスで、広いベランダがあった。フェデリコの家を出た後だったと思う。エクトルと付き合い出したマリコさんと二人、部屋を探し歩いた。毎日のようにエクトルが来るので、エクトルと3人で住んでたような感覚がある。家族のあるエクトルの奥さんから「日本へ送り返すわよ!」と時々電話がかかってきてた。
ここに住んでる時に、チリ人のパトと出会う。
人懐っこいおしゃべりな青年で、すぐに仲良くなった。チリのクーデターの時にメキシコに逃亡してきた美術の先生の父を持つ家族で、私たちのペントハウスからも、歩いて行ける距離に彼らの家があった。
私は、その時、21歳。
この最初のメキシコでの1年半、今、思い出しても、すごい密度の高い経験をしている。それは、その時の自分の感性が映し出す世界、それに対する反応の感度も違うのだろうけど、今以上に、好奇心の羅針盤に、素直に従って動いていて、そのベクトルに向かって歩き続けるエネルギーがあったからだと思う。
今でも、多動で、一年にやってることの数がおそらく人より多い。でも、この1年半は、今、途中まで書き始めて、とても今晩書ききれるものではないと判断して消したくらい、話せば長い話になる。いつかメモでもいいから、書いておこう。公に言えないこともあるかもだけど、死ぬ前に、封印を解いて「ホントに、こんなアホなことやったんだ」と笑ってもらえるくらいのネタはいくらかある。
アムステルダムのドラマの凡庸なストーリーはそっちのけで、そんな自分のアホな過去も思い出していた。
何度も歩いたパトの家への道、よく曲がるところを間違えて迷ったことや、途中にヨーロッパ系のレストランやベーカリーがあったりして、いつか入ってみたいなあと思いながら歩いていた。
アカデミー賞を取った「Roma」で、メキシコシティの、人種の多様性、ヨーロッパの文化を強く受けた生活様式、国境を渡って不法入国するメキシコ人の貧しいイメージを覆された人達も多かったに違いない。
アムステルダムは、正にそんなアーバンシティの象徴的なイメージがずっとあった。
パルケ・メヒコの南には、中国とメキシコ人のハーフのベトも住んでいた。ウエロという白いゴールデンリトリバーの犬をいつも連れて歩いていたベトとは、そのペントハウスの主、アメリカ人のエミーを通じて知りあったと記憶する。そうだ、ベトのアパートにも、ベトが旅行に行ってる時に住ませてもらったことがあった。
当時、レントはアメリカドルで8ドル。
20年くらい前に行った時、まだそこに住んでたベトに、「今、いくらなの?」と聞くと「ただだよ」「え?何で?」「大家が死んじゃったからさ」と、さも自然の成り行きのように言った。
アムステルダム。21歳の私の運命は、あのペントハウスに住んでいる時に、かなり大きな舵を切った。30年以上経った、21世紀のコンデサの若者の恋愛ドラマを見ながら、あの身の丈より大きな住処で暮らした日々を思い出す。
その後、パトと私は、新聞街の側のモレロス通りにアパートを見つけて、二人で住むことになる。5階の部屋なのに、エレベーターが遅すぎたり、壊れたりして、階段で上がる生活だったが、最初のうちは、ままごとみたいに楽しくて、二人でパトのお父さんたちの家にもよく行って、楽しく暮らしていた。
1985年5月1日のメーデーの日、喧嘩して、荷物をまとめて出て行ったパトが、アパートの下でタクシーを待っている間に事件は起こった。
メーデーの学生たちを取り締まっていた警官が、パトを誤認逮捕してしまったのだ。いろいろあって、政治的なチリからの亡命家族とわかったパトが、その後、ピノチェットの軍事独裁政権のチリには返すことができないため、カナダに難民として、国外追放された、という以外は、未だに消息が分からないでいる。
忘れたわけではないけれど、どうしようもないこともある。
なので、25歳で妊娠した時に、結婚することも考えず、子供と生きようと思って、再びメキシコに渡って、長女を出産した。
それから、子供の父親が、私より子煩悩なことが発覚し、家族になることになるのだけど、娘たちも大きくなった今、ドラマを見ながら、あの大きな舵切りで、私ができなかった、選択できなかったことがあるとしたら何だっただろう?と考えた。
本当のアムステルダムにも、ピノチェットのいなくなったチリにも、まだ行ったことがない。
もう21歳ではないけれど、あれから変えざるを得なかった世の中の見方とか、知らない間に、自分の中で出来てしまった先入観とか、常識と呼ばれるものを、ちょっと点検して、今からのストーリーの設定を変えてみるのもいいかもしれない。
アムステルダムのペントハウスは、大家のエミーが、病気で入院した先で、腸チフス菌を移されて、結局、家を売ることになって、私たちも引っ越さなくてはならなくなった。
もう一度、あんなところに住んでみたい。
未完成のマンション。
街を見渡す大きなベランダ。(手すりもなくて、少々怖かったw)
天窓のあるバスルーム。
でも、キッチンがなくて、いつもキャンプみたいなご飯を食べてた。
死ぬまでにパトには会えるんだろうか?
あんまり考えないように生きてきたけど、ちょっと余裕が出てきたのかもしれない。
アムステルダム見て、メモだけでもしとこうと思って、
久しぶりに開いたnoteでした。