構成要素
国内外のTwitterで、#私を構成する42枚 というハッシュタグ及び画像が流行っています。
端的に言えば、思い入れのあるアルバムのジャケット写真を42枚並べるというものです。
到底42枚には収めきれないのですが、例えばあえて選ぶと、僕の場合は上掲のようになります。
ただ、僕を構成するとは言えないですね、やっぱり。よく聴いたアルバムたちではありますが、僕を構成するのはアルバム単位でもなければ、曲単位でもないからです。
構成要素という単位で考えると、例えばGroove Riderの「mysteries of funk」のドラムンベースのあの低音のサスティン、だったり、Radioheadのギターの空気感と実験性、Jamiroquaiやある時期のIncognitoのコードワークの一端、セロニアス・モンクの奇妙な調性、ブライアン・セッツァー・オーケストラのブラスの響き、ヌーノ・ベッテンコートのギターリフのグルーヴ、シュガーベイブのミックスの定位感、キリンジの詩的センス、ティム・クリステンセンのブリティッシュロックと北欧的感性の入り混じった美しい旋律と和声、ロマン・アンドレンのコンテンポラリーなラテングルーヴ、Technoboys Pulcraft Green fundの洗練されたテクノポップサウンド、人間椅子のヘヴィネスと無常の哀惜……etc, パッと思いつくだけでも挙げきれないのですが、様々な断片と僕の自我が結び付いているように思います。
それらも「あえて挙げるとすれば」に過ぎないなぁと思います。なぜなら、曲を作るときに、特に最近は他の誰かの曲をイメージしないようになっているからです。自分の中から出て来る発想に拠るわけです。それが偶々、聴く人の記憶にある馴染み深い何かと共通点がある、ということは多いと思いますし、僕自身も意図せず自分が影響を受けた何かを感じさせるものになっていたりするのだと思います。
その意味では、作る時の僕は、自他の境界が無くなっていくような気がしています。既存の音楽を意識しなくなるということです。違うものを作ろうとも思っていません。同じであるとか、似ているとか、どうでもよくなっていく感じがします。
僕が新しいと思うときは「僕にとって」である場合だけです。世の中的にどうかはあまり関係がないです。古い時代の音楽でも最先端の音楽でも、僕にとって新しければ同じです。もっと言えば、新しいかどうかもわりとどうでもよくて、「より味わい深い」かどうかの方が大切な感じがします。
と言うと「今回はテクノポップチューンを作ろう」などと思う時は、既存の音楽を意識していることになりますが、それはあくまでも大枠の形式で、実際に作って行く段階では既存の曲をほとんど意識していないと思います。オマージュというかネタ的にあの曲のあの音色を入れたいとかはありますが。
習作としてカバーをすることもありますが、その時もあくまでも自分の解釈でアレンジを入れて行きます。
今作っている音源がそうです。古のアニソンのカバーですが、かなり(僕の解釈での)ヘヴィメタリックなサウンドで、コードも独自解釈なので原曲とは結果的にたぶんかなり違います。歌メロと歌詞だけは原曲にほぼ忠実に使っていると思います。(ただ今回、技術的にアレンジを妥協したので、演奏力の課題が大きいですが)
このあたりのことは、感性的な面が強く、あまり的確に言語化出来ていない感じがします。
なので、出来た曲の説明をするときも、「こうだ」と言いづらい面があります。「こうだ」と言うにしても、あくまでも僕の解釈上の表現でしかないので、結果的に他の人が思う「それ」とは違ってしまっていることになりがちです。
まあ、それはそれで構わないのですが、何となくそういうことが見えて来ているような気がするこの頃です。
以上
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