普通とは
フォローさせていただいているまつぼっくりさんのエントリー「『普通』を求められるのが嫌い」https://note.mu/matsubokjuri/n/nd75546d6fd581 を拝読して、感じ入るところがあったので、「普通」について書きたいと思う。
この普通というテーマは僕にとってとてもタイムリーなもので、最近思うところが多くあったところなのだ。
普通とは、他者との関係性において自己存在の位置を知るための曖昧な指標の一つではないかと思ったりもするのだけど、僕は最初からそう思っていたわけではない。
かつての僕、そうだなぁ、自我が肥大し始めた高校生の頃の僕は、普通という概念自体を強烈に否定していたわけで。誰が決めたんだと。その否定っぷりはなかなかのもので、学校の始業時間を無視して好きな時間に登校、授業中には漫画を読み、喫茶店で勉強をし、遠足に行けば途中で勝手に帰る……という好き放題で酷かった(苦笑)。本当に「誰が決めた?」が口癖なぐらいのこじらせっぷりで。まさに、「やりたいことをやりたいように」しかしていなかった。(今もある意味そうだけど)
その頃の僕は、ルールの意味、普通の意味、を根本から身をもって問うていたつもりだった(でも理解できていなかった)し、それが元で価値観を押しつける教師達とは対立したし、級友からは「尾崎豊のようだ」と言われもした。枠に嵌められることが大嫌いだった僕は、何かに似ていると思われることも嫌い、尾崎豊に対しては同族嫌悪的な感情を抱いたものだった。今思えば失礼なことで……。
そんなだったから、いろんなものとガツガツぶつかってしまい、周りの人を泣かせてしまったりもした。ほんとに尾崎っぽいなそれ(笑)。
とにかく人を泣かせるのはアウトだ、迷惑をかけちゃいけないと反省したりもしつつ、結局は我が道を歩いて来てしまったと思っている。(ひどい自分語りだw)
けれど、ある時ふと気づいてしまった。
自分が社会から孤立気味だということに。
きっかけは病気で職を失ったことから(重いw)。
そこから、かつて強烈に否定した普通という概念がむくむくと頭をもたげ始めたのだ。
人はそれぞれ孤独(尾崎っぽいw)。
死ぬときゃ独りだし、他人の思惑から独立した自分の指針でもって生きていく、他人に頼らずに独りで生きていく覚悟が必要(さらに尾崎っぽいw……のか?)。
大学を出てからフリーランスを気取ってプログラマーで食ってきた(その実、下請け孫請けでしかない)僕は、そんなふうに考えて生きてきたのだと思う。
それが、病いを得てあらゆる職能を失った時、例えようのない無力感に襲われてしまった。
何もできないのに、生きている。
生かされている。生きたい。
この事実に、打ちのめされる余裕もなく、何を置いてもただ生きたかった。
孤独を受け入れているつもりだった僕は、人が独りでは生きて行けないことを否応なく突きつけられたのだった。(物理的に独りでいることはわりと平気でも、論理的なつながりを断たれることがつらかった)
とあるドキュメンタリー番組で、いつも家族を率いて先頭で狩りをしていた雌ライオンが、老いて足に傷を負って群れから離脱し、飢えて痩せ細って孤独に死んでいく姿が映し出されていた。群れのライオン達も滅多に獲物にありつけないギリギリの暮らしをしていて、彼女を養う余裕はない。それが分かっているからか、彼女は独りで群れから退場した。
職能を失ったら死ぬしかないのが野生の世界だけど、自然が厳しいだけであって、彼女とて死にたいわけではなかっただろう。
つまり、独りで生きていく覚悟など、その時が来たら大した意味はないのだ。否応なくそうなるのだから。
幸い、僕には助けてくれる人がいて、何とか生きて来られたし、これからは人との関わりをより本質的な意味で(それは損得や貸し借りのような次元ではない)大切にして生きていくし、ずっと感謝していく。
人はそれぞれ孤独であると同時に、人との関係性を築いて生きていくものだとすれば、自ずとそれぞれの普通が湧いてくるのではないか。
自分が思う自分の普通、他人が思う他人の普通、周囲の社会やコミュニティーから何となく漂う通念、コモンセンス……。
これらは、個人をある価値観に縛り付けるけれど、ゆるく支え合って生きるためのよすがにもなり得るのではないか。
社会というものは、ある関係性、ネットワークの単位とも言える。
家族、学校、会社、それぞれに社会性があって、支え合って生きている。
会社員は、全員がライオンのように獲物を狩る必要はない。それぞれが役割を果たすことで暮らしを成り立たせている。間接部門だって大切なのだ。
その営みの中で、その営みにとって有意義そうな共通する価値観が発生するのは自然なことで、その一つが普通という概念なんだろう。時にはそれがシガラミにもなり得るし、社会を生きづらくするかもしれない。悪い奴だっている。それが枷となって犠牲になる人が出たりもする。ブラック企業とかね。
でも、少し広い範囲の社会で見れば、そういったことは問題視されて、皆がよりよく生きるためにどうすればいいかの検討が始まる。既に改善するための要素が含まれている、脱構築だ。それが常に上手くいくものではないけれど、そんな都合のいいものはありはしない。ただ、僕らはよりよく生きるために歩んでいくのだ。
さしあたっては、普通も含めた社会にはびこる価値観を、個人のライフスタイルや価値観や存在を尊重し合えるものにしていくために、自分がどうあればいいか……ぐらいを考えていたい。
普通であるとかないとかに拘り過ぎず、かと言って無視もしない。
そういう生き方をしたいと思うこの頃です。
最後に、とても私的で恐縮ではあるけれど、最近書いた「Ordinary Boys」という曲の歌詞の「普通の暮らしを愛する ただそれだけのこと」という一節に、そのあたりの心境が結実していたりもするので、一読、一聴していただければ幸いです。(https://note.mu/caponyan/n/nc67d99c918b9 )
長い拙文を読んでいただき、ありがとうございます。
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