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受け継がれた血統 戦後を生きのびたナチスは如何にしてウクライナで復活を遂げたか①


はじめに

ウクライナ情勢を調べていくと、遅かれ早かれナチスにたどり着く。
かつては欧米はもちろんのこと日本のメディアですらアゾフ大隊の事を極右テロリスト集団と紹介していたくらいだが、ロシア叩きがはじまってからは、省庁の当該ページが消されたり、メディアはあれはただの愛国者集団だのと都合のいい報道をするようになってしまった。今はしかし、主要メディアによって一般には「ない事」にされているナチスの存在も、独立系メディアの努力により少しずつ知られるようにはなってきた。最近ではナチスドイツのウクライナ部隊、第14SS武装擲弾兵師団『ガリーツィエン』の生き残り老兵がカナダの議会でスタンディングオベーションを受け大いに物議を醸したことがまだ記憶に新しい。
またマイダン・クーデター以降神格化され、公然と「ウクライナの父」としてお神輿で担ぎ出される存在となった国民的英雄、ステパン・バンデラの名はすでに広く知れわたっているのではないだろうか。
(まだOUNやステパン・バンデラの名を聞いたことがないという人は、Kiyoさんのブログに秀逸な翻訳記事があるのでまずはそちらを読んでいただきたい。
また、暗殺されたウクライナのジャーナリストOles Buzina -ウクライナ、ロシア、ベラルーシが三位一体の兄弟的存在と信じた真の愛国者- が2010年に出版した「バンデラ~猫の絞殺者~」と題する記事も、バンデラの変人ぶりがよくわかるのでぜひ一読することをお勧めする。)

バンデラは、ウクライナ国内におけるファシズム政策を進める上で英雄というわかりやすいシンボルが必要であったのと同時に、外向けには、そもそもOUNやバンデラが何者かを知らない人の方が多いのが好都合であるのと、少し先に進んだ人が、彼らをナチスだと暴露している情報にたどり着いたとしても、ナチスドイツとの直接の関係やそれがどう現代のナチスと結びつくのかという肝心の部分がミッシング・リンクになっていて、矛先をかわすための良いカモフラージュにされている感がある。
第二次世界大戦後、戦争犯罪で裁かれることなく生き伸びたバンデラは1959年には暗殺されてしまう。彼は祖国独立の夢を果たせず非業の死を遂げた英雄となり、ウクライナの自由のシンボルになったが、大戦中ナチスドイツの協力者であった事や、彼の数々の戦争犯罪の直接の証拠はうまい具合に見つからないようになっている。
こんなことがあった。ドイツの若手ジャーナリストThilo Jung氏が2022年6月に彼のポッドキャスト「Jung und naiv」(ユング・ウント・ナイーフ:ユングは自分の名前Jungと「若い」とを掛けている。ナイーフは経験不足で愚かな事を指す。相当キレのあるインタビューを見せてくれる番組に若くて愚かという逆説的なネーミングをしている)にて当時在独ウクライナ大使だったアンドレイ・メルニク氏を「あなた方が英雄視するバンデラという人はナチスドイツの協力者ではないのか」と問い詰めた際、メルニクは、「バンデラはナチスではない。彼がユダヤ人やポーランド人の虐殺に直接関与した証拠はない、やったのは彼の部下たちだ。彼がもし本当にナチスなら(ニュールンベルクで)裁かれていたはず。」とシラを切った。もちろんバンデラを知るきっかけとなるという点ではこの報道には大きな意味がある。しかしこれだけでは我々の持つ疑惑は、濃い灰色の域を出ることはない。彼は絶対にやっているはずだ、そして死んだあとも誰かに思想的影響を及ぼしているに違いない、というような憶測だけでは、バンデラをお祀りする神社が現れて彼は「ウクライナ国民のお守り」的存在であるという言い逃れをされてもそれを真っ向から糾弾するのは難しいのである。

メルニク大使はしかし彼の部下がやったとは言った。これはとてつもなく重要な証言である。
その部下達は戦争犯罪でしかるべき裁きを受けたのだろうか?
彼らは裁かれることなく生き延びたのではないか?
もしかしたらバンデラの担ぎ出しでさえ生き延びた本物のナチスの血統を隠すための偽旗だったのではないのか?

この記事のタイトルにもなっている写真。私は、この一枚の写真をたどることで、上の疑問に答え、現代にまで累々と繋がるウクライナ・ナチスの系譜をも明らかにすることができると考えている。
この写真に写っている人達が何者で、どのような目的で集まったのかを知れば、今起こっていることの本質が自ずと見えてくるはずだ。

一枚の写真

前列左から、ジーン・カークパトリック国連大使、カテリーナ・チュマチェンコ、そしてヤロスラフ・ステツコ、後列左が久保木修己、右が英国議会議員のジョン・ウィルキンソン

1983年秋、和やかな雰囲気の中、一枚の記念写真が撮影された。アメリカ合衆国ワシントンD.C.に拠点を置く国家捕虜委員会(NCNC)の会合でのことであった。1959年に設立された、反共産主義擁護団体であるこのNCNCの創設者であり長年会長を務めていたのは、レフ・ドブリアンスキーである。

レフ・ドブリアンスキー

このドブリアンスキーという人物について簡単に触れる。合衆国共和党員。外交官であり、元在バハマアメリカ合衆国大使。ジョージタウン大学の経済学教授。
1918年11月9日、ウクライナ移民の息子としてニューヨーク市で生まれる。1941年にニューヨーク大学で学士号、1943年に修士号を取得し、1940年代を通じて経済学の講師を勤める。1951年にニューヨーク大学で博士号を取得。論文は、経済学者のトールスタイン・ヴェブレンの批判。ドブリアンスキーは1948年から1987年に引退するまで、ワシントンD.C.のジョージタウン大学で経済学を教えた。そこでの在職中、彼は名誉教授になり、「ソビエト経済学」などのクラスを教えた。彼の学生の中には、将来のウクライナのファーストレディとなるカテリーナ・ユシチェンコ(旧姓チュマチェンコ)がいた。1970年、彼はジョージタウンに比較政治経済システム研究所を設立し、指揮をとった。
ドブリアンスキーは、1957年から1958年まで国立戦争大学の教員でもあり、米国国務省、国際通信機関、米国下院のコンサルタントを務めた。反共産主義の擁護者でもあった彼は特に国家捕虜委員会NCNCと共産主義犠牲者記念財団との仕事で知られており、前者においてはその創始者であり、また後者の名誉会長を務めていた。NCNCはウクライナ民族主義者の組織バンデライトと同盟していた。NCNCワシントンDC委員会は地元のOUNのトップが議長を務めていた。

さて本題に戻ろう。
件の写真に写っている人物を辿っていくことにする。

ジョン・ウイルキンソン(1940~2014):
後列右。イギリス保守党議員。1979年から1980年まで産業大臣、1981年から1982年までの国 防大臣。元英国空軍(RAF)のメンバーであり、国防に関して頻繁に議論した。1979年から1990 年まで西ヨーロッパ連合(WEU)の議会議員。欧州評議会の議会議員も務めた。

久保木修己(1931~1998):
後列左。世界基督教統一神霊協会(統一教会)の日本の初代会長、国際勝共連合の日本の初代会 長。そのほか、世界日報社会長、世界平和連合会長、国際文化財団理事長、アジアサファリクラ ブ会長、国際友好釣連盟会長、北米極真空手会長などを歴任。中華民国中華学術院名誉哲学博士

ジーン・カークパトリック(1926~2006):
前列左。民主党員から熱狂的な共和党員となり、レーガン大統領の外交顧問となる。熱烈な反共産主義者であり、初の女性米国国連大使となった。カークパトリック女史は、アメリカの目標を推進するべく、独裁政権を含む世界中のすべての反共産主義政府をアメリカが支援することを提唱しており、アメリカの模範の力が彼らを民主主義に変えるだろうと宣言した。

ヤロスラフ・ステツコ(1912年~1986年):
前列右。反ボリシェヴィキ国家ブロック(略してABN)およびウクライナ民族主義者組織OUN-Bのトップ。第二次世界大戦を生き延びた彼のここまでの旅路は長かった。OUN-Bのリーダー、ステパン・バンデラの一等副官として、ステツコは1941年6月25日、司令官に宛てた書簡の中で次のように報告している:「我々はユダヤ人の排除を支援する民兵組織を創設している」―ウクライナ反乱軍(UPA)である。ステツコはナチス・ドイツ・ウクライナ懲罰分遣隊のアプヴェーア(Abwehr)連絡将校テオドール・オーバーレンダーとともにナハティガル(ナイチンゲール)大隊を率いてリヴィウ攻撃を行った。6月30日午後8時、つまりヒトラーによるソ連攻撃10日目の終わりに、ステツコはウクライナ国民とステパン・バンデラ指導下のウクライナ民族主義者組織を代表して「ウクライナ国家宣言法」を発布し、自らを「ウクライナ政府」首相に任命した。つまり彼はバンデラの右腕であった。

カテリーナ・チュマチェンコ(1961〜):
そしてカークパトリックとステツコの間に立っている魅力的なブロンドの女性がカテリーナ・チュマチェンコである。1982 年 6 月にジョージタウン大学を卒業したばかりの彼女は、アメリカのウクライナ議会委員会のプロパガンダ組織であるウクライナ国家情報局(UNIS)のリーダーとして初めての仕事に着手した。その後のキャリアは彼女を後にウクライナの大統領夫人のポストへと導くことになる。

2004年12月のウクライナ大統領選挙に関する記事で、ウォール・ストリート・ジャーナルはカテリーナ・チュマチェンコを「アメリカで育った冷静で繊細な実業家」と呼んだ。同紙はさらに、「ユシチェンコ氏を厳しい選挙戦のあいだ助けたのは強い絆で結ばれていた妻であり、おそらく彼女との関係が大統領職の成功にも貢献するだろう」と続けた。もし記事の著者がチュマチェンコの本当の経歴を知っていたとしたら、これは異例の暴露となったはずであるが、残念ながらそうはならなかった。

カテリーナ・チュマチェンコ=ユシチェンコとは一体何者なのか?
カテリーナ・チュマチェンコは、1961年9月1日にシカゴのウクライナ移民の家族、父親:ミハイロ(1917 – 1998)。母:ソフィア(1927年 - )との間に生まれた。
1981年、チュマチェンコはジョージタウン大学外交学部で国際経済学の学士号を取得した。ジーン・カークパトリック教授は同大学で教鞭をとり、ポーラ・ドブリアンスキー(レフ・ドブリアンスキーの娘)も同大学の学生であった。

ポーラ・ドブリアンスキー


のちにチュマチェンコが局長となったウクライナ国家情報局(UNIS)は、「ウクライナ人コミュニティと米国政府関係者との接触と協力に関して、米国ウクライナ議会委員会(UCCA)の活動を強化する」ことを目的として、1976年にワシントンに設立された。戦前1940年に設立されたアメリカウクライナ議会委員会(UCCA)は、その目標を「米国におけるウクライナの利益を促進し、ウクライナの独立のための闘争を支援するためのウクライナ代表組織を創設する」ことに置いており、かつて米国大使を務め、「捕虜国家」法案の主要なロビイストの一人であったレフ・ドブリアンスキーが議長を務めていた。チュマチェンコはレフの娘のポーラ・ドブリアンスキーと緊密な協力関係にあった。1981 年から 1987 年の間にドブリアンスキー女史は国家安全保障会議のソ連と東ヨーロッパ担当部門の一職員から部長にまで昇進した。
UCCAの報告書によると、アメリカの元ナチスを捜索するために1979年に設立された特別捜査局の活動に対抗するチュマチェンコの努力は非常に成功したという。1982年11月18日、ワシントン・ポストはチュマチェンコの書簡を掲載し、ウクライナ民族主義者組織[OUN]がナチスと協力したという告発を「鋭く否定」したのであった。
1983年、チュマチェンコは全米捕虜国家委員会(NCNC)の事務局長に就任した。この委員会は主な活動として「捕虜国家週間」を開催しており、1983 年 7 月 18 日〜19 日には25 周年を祝っている。世界中から政府関係者、国会議員、大使、ゲストが集まった。UCCAの報告書によると、このイベントには「共産主義者による国家支配を激しく非難したレーガン大統領、ブッシュ副大統領、そしてジーン・カークパトリック国連大使」が個人的に出席したという。また反ボリシェヴィキ国家ブロック(ABN)のリーダー、先ほど紹介したバンデラの右腕ヤロスラフ・ステツコと元国家安全保障補佐官リチャード・アレンも出席した。
ジョン・シングラウブ(彼については後で詳しく説明する)は捕虜国家週間会議の組織委員会を率いていた。「NCNC事務局長兼ウクライナ国家情報局長官のチュマチェンコ氏は、ホワイトハウスでの式典、議会の公式晩餐会、本会議、晩餐会という4つのイベントの主なコーディネーターだった」と報告書は続けている。

WACLとチュマチェンコ

同じく1983年、9月20日から23日まで世界反共産主義者連盟(WACL)の第16回会議が、ルクセンブルクにて開催された。WACL については数多くの本が書かれているのでここでは簡単な紹介にとどめるがアメリカの調査記者スコット・アンダーソンとジョン・リー・アンダーソンが書いた論文のタイトルは、これらの組織の構成と活動内容をよく表している。「 世界反共産主義同盟。テロリスト、ナチス、ラテンアメリカの死の部隊がどのように浸透したかの衝撃的な暴露」。元WACLメンバーのジェフリー・スチュワート=スミスは、それを「主にナチス、ファシスト、反ユダヤ主義者、嘘の拡散、残忍な人種差別主義者、腐敗した出世主義者の集まり」であると説明している。
この会議には70カ国と10の国際機関の代表が出席した。その中には次のような人たちがいた。なお、チュマチェンコ以外の重要人物については、第二部にて詳述することにする。

- テオドール・オーバーレンダー教授。博士。ドイツ出身 – 元ナチスドイツ・アブヴェーア将校で、ウクライナ親衛隊部隊との連絡責任者。

- ジョン・シングラウブ情報少将、CIAの前身である戦略局の職員、CIAの創設者の1人、民間諜報・分析ネットワークのウェスタン・ゴールズ財団の共同創設者であり、40年の諜報活動経験を持つ。世界中、特にラテンアメリカと中央アメリカでの秘密作戦に参加。

- ダニエル・グラハム米国中将、元CIA副長官、元国防情報局(DIA)長官。

- 反ボリシェヴィキ国家連合(ABN)からは、議長であるヤロスラフ・ステツコと彼の妻であるヤロスラヴァ・ステツコ、そしてローマン・ズヴァリッチが参加。

-そして若干22歳のカテリーナ・チュマチェンコは、米国国家委員会 (USNCNC) の代表として参加。


第16回WACL会議の参加メンバー(抜粋)


それにしても、この若いウクライナ系アメリカ人は、どのようにしてニュルンベルク裁判から逃れたナチス、親衛隊に所属していた民族主義運動の指導者、暗殺部隊を創設したアメリカ情報将校らとの会合に出席するようになったのか?
21歳で大学を卒業したばかりの彼女が、すぐにウクライナ民族主義ネットワークのいくつかの重要組織のトップとなり、米国のホワイトハウスや議会でウクライナ関連のイベントのコーディネーターを務め、そしてウクライナ人と一緒にいるととても快適に感じられたのはなぜだろうか。アメリカの大統領、副大統領、国連大使は?
なぜ彼女はそのような若い年齢で、このような機密性の高いレベルのアクセスを得たのか? なぜ彼女はそれほど信頼されていたのか?チュマチェンコの若い頃と大学生活の間に、彼女がアメリカ政府の上層部に入り込み、彼らの深い信頼を得ることになるなんらかの出来事が起こったことは明らかである。チュマチェンコがアメリカの諜報機関と関係があるという告発は新しいものではない。そのような告発は常にあった。チュマチェンコは全く異なるレベルにいると言って差し支えないであろう。彼女は別の階級に所属している。米国のウクライナ連合の中で彼女だけが所属する特別な階級である。
先日カナダ議会で物議を醸した「ガリシア師団」、正式名称は親衛隊(第1ウクライナ師団)の第14武装擲弾兵師団は、ウクライナでポーランド人とユダヤ人の民族浄化を行うためにアプヴェーアによって組織され、最も汚い種類の部隊 - 子供の処刑などのゲシュタポの仕事- を担当した。ウクライナのゲシュタポへの行き過ぎた協力に関する記述を読んだことのある人にとって、歴史的事実を否定することは心理的にも道徳的にも困難である。ファシストとともに毎日働き、彼らの目標のために信念を持って戦うこと。彼女がそのような職場環境でくつろぐためには、何か特別な教育を受けているはずだ。
続く2 年間、1984 年から 1986 年にかけて、チュマチェンコはイリノイ商務省でインターンシップを行い、ワシントン倫理公共政策センターで編集者として働きながら、シカゴで経営管理の修士号を取得した。
1986 年 9 月に修了するとすぐに、彼女は 1987 年から 1990 年まで、ポーラ・ドブリアンスキー人権・人道問題担当国務次官補の特別補佐官を務める。レーガン大統領は、イラン・コントラ事件を巡る米国への鋭い批判に応えてこのポストを創設した。ポーラはそこで人権への関心を示すという任務を与えられた。
1988 年 4 月にチュマチェンコはホワイトハウスに移り、そこで広報連絡局副局長のポストに就く。このポストでチュマチェンコとポーラ・ドブリアンスキーは、1988年9月16日から18日までワシントンで開催された第15回ウクライナ系アメリカ人会議で出席者を歓迎した。彼女は会議の参加者にレーガン大統領の挨拶を述べた。レフ・ドブリアンスキー大使も娘とその友人とともに晩餐会に出席している。
チュマチェンコは、1989 年 1 月までホワイトハウスで働いた。彼女は、1989 年 1 月から11 月までの短期間、財務省で役職に就き、その後、1989 年 11 月から 1991 年 5 月まで、新たに議会合同経済委員会で経済学者として仕事を続けた。
1991年から1993年まで、チュマチェンコは米国・ウクライナ財団を共同設立し、その副会長を務め、ピュリプ・オルリク研究所の所長を務めた。1993年から2000年まで、チュマチェンコはウクライナのKPMGのカントリーマネージャーとして、また米国国際開発庁の後援による銀行職員研修プログラムのコンサルタントとして働いた。
カテリーナ・チュマチェンコにそのあと起こった素晴らしい出来事はよく知られている。彼女は飛行機の中で「偶然」ヴィクトル・ユシチェンコとロマンチックに出会い、1998年に彼の妻になったのであった。アメリカ政府の優秀な学生カテリーナ・チュマチェンコが将来の国家元首を配偶者に選んだことは、よく考え抜かれた偶然というべきなのだろう。
結婚後、ユシチェンコは 1999 年にウクライナ首相に就任し、オレンジ革命を経て2004 年には大統領に就任した。
こうして、大愛国戦争中に開始された、バンデラの側近の薫陶を受けたものを祖国の政治中枢に送り届けるという計画は、冷戦時代の数十年間を通じて何世代にもわたって辛抱強く受け継がれ、1990 年代に綿密に育てられ、60 年後についに成功へと導かれたのであった。そしてウクライナ本国側もしっかりそれを受け入れる準備をしていたのであった。

1991 年以降のスウォボダ等の台頭、そしてユシチェンコとの合流

1991年の独立後、ウクライナでは旧ソ連の他の地域と同様、国内で右翼過激組織が急増した。極右勢力は主に西側の帝国主義勢力とウクライナ国家によって支援されていた。
OUN と UPA の体系的な再建は、1990 年代にはすでに始まっていた。1997年、第2代ウクライナ大統領レオニード・クチマの下で、OUNとUPAに関する政府委員会が設立され、著名な歴史家が参加した。2000 年と 2005 年の委員会の 2 つの調査結果報告書は、どちらもファシスト、特に OUN (B) の役割を誇張して伝えていた。この委員会の目的は、赤軍と OUN/UPA の退役軍人に同等の地位を与える法律をイデオロギー的に準備することであった。これらの勢力の再建における画期的な進歩は、西側諸国が支援する「オレンジ革命」を通じて2004年に権力を掌握したヴィクトル・ユシチェンコ大統領による法整備である。彼の下でさまざまな法律が可決された。
2014年のマイダンでもその存在感を見せつけた極右政党スヴォボダ(自由)はその前の「オレンジ革命」でユシチェンコ氏を支援した。その指導者オレグ・チャグニボクはすでに2002年にヴィクトル・ユシチェンコ率いるナーシャ・ウクライナ(我がウクライナ)に無所属議員として参加しており、議会予算委員会のメンバーとなっていた。
チャグニボクは当時UPA/OUN-B退役軍人たちに次のように宣言していた。
「あなたがたはモスカリ(ロシア人に対する軽蔑的な表現)、ドイツ人、ジディ(ユダヤ人に対する差別的な表現)、その他のクズどもと戦った 英雄だ。」
このヘイト発言により世論の圧力が高まりユシチェンコ氏のチームはチャグニボク氏を守りきれず、同年彼を追放した。彼に対する扇動罪の刑事訴訟はしかし却下された。

ウクライナ社会民族党(SNPU)の党旗


そしてチャグニボク氏の党は、1991年にさまざまな右翼急進団体や学生団体の合併によってウクライナ社会民族党(SNPU)という名前で設立されていたのが、オレンジ革命の直前にスヴォボダ(自由)と改名し、新しい党のシンボルもナチスドイツが記章として用いていたヴォルフスアンゲルは引っ込められ、三本指の手の形に変更された。

スヴォボーダの党旗


このスヴォボーダのシンボルをみて何か気がつかないだろうか?
三本の指は、そうこれは多分ウクライナのシンボル、トライデント(三叉槍)がルーツだ。しかし、『手』は一体どこからきたのか?
WACL会議にはABNからステツコが代表として参加していたことを思い出していただきたい。
ABN、反ボルシェヴィキ国家ブロックは元はといえばナチスドイツの東方政策としてアルフレート・ローゼンベルクによって作られたものであった。

東部占領地域大臣も務めたローゼンベルクはニュールンベルク裁判で死刑判決を受け、処刑された。
そしてその遺志を継いだのは、バンデラの側近、ヤロスラフ・ステツコだった。
ここでもう一度タイトルの写真をよく見てほしい。
左上、久保木修己のすぐ後ろにABNの記章が見える。

ABN=反ボルシェヴィキ国家ブロックのシンボルである『握り拳』


如何だろうか?この類似性を、スヴォボーダがABNの継承者となったという推測の十分な根拠に出来るのではないのだろうか?
いや、間違いなく、ステツコがチュマチェンコに託した思いは、ユシチェンコによって確実に祖国に根付いていったのだ。
こうしてユシチェンコの保護のもと、スウォボダは2004年から2010年の間に会員数を3倍に増やすことができたという。ウクライナ西部の地方選挙では、彼らの得票率が突出して高かった。2010年の地方選挙では、ガリシア州東部で20~30パーセント、全国では5.2パーセントの得票率を獲得した。それ以来、スヴォボダの本拠地は、あのバンデラの右腕ステツコが1941年にわずか4日という短命のウクライナ独立を宣言した場所、リヴィウ市となった。
2012年10月の議会選挙では、約58パーセントという1991年の独立以来最低の投票率となったが、スヴォボダは4番目に強い勢力(10.45パーセント)として最高議会に加わった。ウクライナ西部が最大の得票率を獲得し、3つの行政区で30~40パーセントという結果となった。しかし、ウクライナ東部では同党の勝利率は1%弱にとどまった。リヴィウ市ではスヴォボダが50パーセント以上の支持を獲得し、キエフでは第2位の政党となった。
スウォボダ自身は、ファシストへの志向とナチスへの敬意に何の疑いも抱いていない。2011年1月29日、1918年のクルティの戦いを記念して、党は自治右派と協力してナチスの象徴をあしらった大規模なたいまつ行列を組織した。
2011 年 4 月 28 日、第14SS武装擲弾兵師団『ガリーツィエン』結成 68 周年を祝う。パレードの沿道には「我が国の誇り」を称賛するポスターが貼られた。党思想家ミハルチシン率いる参加者は「一つの民族、一つの国家、一つの祖国!」と叫び、バンデラ、メルニク、シュヘヴィッチを「ウクライナの英雄」と称賛した。
2011年6月30日、スヴォボダはリヴィウでのドイツ侵攻とステツコの「ウクライナ国家再生」70周年を記念し、SSの制服を着た戦闘員が登場する民族祭を開催した。スウォボダは市内にいくつかのレストランもオープンした。そのうちの1つでは、バンデラの等身大の肖像画がダイニングルームに飾られ、トイレにポーランドとユダヤ人についての差別的なジョークが書かれた。提供される料理には、「ヘンデホーフ」(ドイツ語で『手を挙げろ』)や「カンプセレナーデ」(ドイツ語で『戦闘夜曲』)などがある。地元のサッカークラブの右翼ファンは、横断幕でリヴィウを「バンデラシュタット」(バンデラの街)と呼んだ。リヴィウの通りの名前は、スヴォボダ市議会議員によってナチスの協力者にちなんだものに付け直された。

ウクライナ民族主義者会議(KUN)の党旗

ユシチェンコ政権とファシストの協力はスヴォボダに限定されなかった。公然と反ユダヤ主義を掲げるウクライナ民族主義者会議(KUN)は、ヤロスラフ・ステツコの未亡人ヤロスラヴァ・ステツコによりOUNの後継組織として1992年に設立され、2002年にはユシチェンコの「私たちのウクライナ」ブロックにも参加した。ウクライナ国家主義者会議(KUN)は2002年までラーダ(ウクライナ国会)での議員を務めた。

ヤロスラフ・ステツコ未亡人ヤロスラヴァ・ステツコ

また、日本語ではあまり情報がないヴォルイーニの虐殺に関与したUPAのローマン・シュヘヴィッチ(ヴォルイーニの虐殺についてはここに詳しく紹介されている。またKiyoさんのブログ記事『ブラックブック バンデラの残虐行為 1941-1945』も是非参照されたい)は第二次世界大戦後もソ連軍と交戦を続け1950に戦死したが、彼の息子ユーリ・シュヘヴィッチが右翼政党「ウクライナ民族会議 ― ウクライナ人民の自己防衛」を立ち上げていたこともほとんど知られていない。

ウクライナ民族会議 ― ウクライナ人民の自己防衛(UNA-UNSO)の党旗

ユーリ・シュヘヴィッチが2022年11月に亡くなった際のリヴィウでの葬儀パレードはUPAの制服にて執り行われた。

ユシチェンコは就任直後からウクライナのファシストと彼らのナチスとの協力を更生させる広範なキャンペーンを開始した。2005年7月に彼は「国民記憶研究所」を設立し、ウクライナ秘密情報局SBU(旧KGB)のアーカイブをプロパガンダ活動に委託し、「旧ソ連占領博物館」の創設を支援した。同研究所の所長には、超国家主義活動家としてOUN-Bの後継者が運営する「解放運動研究センター」の所長でもあったヴォロディミル・ヴィャトロヴィチ氏を任命した。
OUNやUPAの戦闘員やシモン・ペトリュラのような国家主義者の指導者らに対しては、彼らの肖像をあしらった記念切手や記念コインを国から発行させ、正式に栄誉を与えた。
ユシチェンコはまたホロドモールをロシアによるジェノサイドであると国際社会に認めさせた。アメリカでは2006年、欧州議会での2008年の決定をロシアは、ホロドモールの被害はノヴォロシア一帯に及ぶもので民族対するジェノサイドではないと拒否している。

記念切手になったステパン・バンデラ


ユシチェンコは政権最後の年に、テレビ・カナル5などのマスメディアがスヴォボダに注目を集めるように仕向けた。チャグニボク氏と党のイデオロギー学者ミハルチシン氏は、ヴェリカ・ポリティカ(大きな政治)やシュスター・ライブなどの人気トーク番組に出演した。この党は、特に2009年のウクライナ西部でのスヴォボダの選挙での成功後、広くメディアで取り上げられた。
ユシチェンコ氏は、2010年大統領任期終了の数日前に戦犯ステパン・バンデラをウクライナの英雄に指名し、リヴィウとテルノーピリに記念碑を建てさせた。
(しかしこのリヴィウやヴォルイーニでの虐殺に関わったUPAメンバーの英雄視はポーランドと欧州連合からの抗議の的になり、政権交代後ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ新大統領はファシストのローマン・シュヘヴィッチの栄誉を取り消している。)

UPAの英雄ローマン・シュヘヴィッチ


ウクライナ政府とメディアによるファシズムの賛美は、国民の大多数から嫌悪感と拒絶反応を受けている一方で、西側メディアは、ファシズムのイデオロギー的・政治的復興を推進したユシチェンコ政権を民主主義の模範として描いた。スウォボダと民兵組織ライトセクターは西側の諜報機関や政党から支援も受けている。
たとえばスヴォボダはドイツのネオナチ組織NPDと緊密な関係を維持しているが、その指導機関には憲法擁護局の秘密工作員が多数所属しているため、2003年に憲法判事らはNPDを「国家の組織」と評した。2013年5月、ザクセンNPDはスヴォボダからの代表団を受け入れ、ドレスデン州議会を友好訪問した。CDU=ドイツ・キリスト教民主同盟系のコンラート・アデナウアー財団もスウォボダにプラットフォームを提供している。2012年、彼等はスウォボダのメンバーを「2012年の選挙からの教訓」に関する会議やセミナーに招待した。

ヤヌコーヴィチ氏が再選されたのはこのような時期だった。しかしユシチェンコ政権下で坂道を転がる勢いで進んでしまっていた右傾化・過激化をもはや簡単に元に戻せる状況ではなくなっていたのである。

第二部に続く


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