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【ゆっくり学ぶシルバーバーチの霊訓】33

※本文中の引用文は記載のあるもの以外は、
『シルバーバーチの霊訓(一)』潮文社刊
アン・ドゥーリー編
近藤千雄訳
よりの引用です。

ただ、この道には往々にして挫折があります。私どもの仕事は人間を扱う仕事です。残念ながら人間は数々の脆(もろ)さと弱み、高慢と見栄、偏見と頑迷さで塗り固められております。自分のことよりまず人のためと考える人はまれです。

大義のために一身上のことを忘れる人はほとんどいません。しかし、振り返ってご覧になれば、そうした条件の中にありながらも、霊的な導きによって着実に使命に沿った道を歩み、これから先の歩むべき方角への道しるべがちゃんと示されていることを明確に認識されるはずです。

これまで一点の疑念も疑問の余地もないほどその威力を証してきた力は、前途に横たわる苦難の日々を正しく導いてくれます。

 施しを受けるよりも施しを授ける方が幸せです。証拠を目に見ず耳に聞くこともなく、それでもなおこの道にいそしむことができる人は幸せです。あなた方のまわりには、あなた方より幸せの少ない人々に愛の手を差し伸べることを唯一の目的とする高級霊の温かみと輝きと行為と愛があります。

潜在意識的状態にある人は、無意識に自分が作り出した欲望のエレメンタルの支配を受けています。傲慢、貪欲、邪淫、憤怒、貪食、嫉妬、怠惰…。

これらに支配されて理性的に生きられていないが為に、本当の自己からの声も届かず自らが作り出した苦しみの中でとどまる事になってしまいます。

正しく考えること。理性的に生きること。これが欲望のエレメンタルの影響から逃れる為の手段です。

地上へ誕生してくる時、魂そのものは地上でどのような人生を辿るかをあらかじめ承知しております。潜在的大我の発達にとって必要な資質を身につけるうえでそのコースがいちばん効果的であることを得心して、その大我の自由意志によって選択するのです。

 その意味であなた方は自分がどんな人生を生きるかを承知のうえで生まれて来ているのです。その人生を生き抜き困難を克服することが内在する資質を開発し、真の自我──より大きな自分に、新たな神性を付加していくのです。

その意味では〝お気の毒に・・・〟などと同情する必要もなく、地上の不公平や不正に対して憤慨することもないわけです。

こちらの世界は、この不公平や不正がきちんと償われる世界です。あなた方の世界は準備をする世界です。私が〝魂は知っている〟と言う時、それは細かい出来事の一つひとつまで知り尽くしているという意味ではありません。どういうコースを辿るかを理解しているということです。

その道程における体験を通して自我が目覚め悟りを開くということは、時間的要素と各種のエネルギーの相互作用の絡まった問題です。例えば予期していた悟りの段階まで到達しないことがあります。するとその埋め合わせに再び地上へ戻って来ることになります。

それを何度も繰り返すことがあります。そうしているうちにようやく必要な資質を身につけて大我の一部として融合していきます。

真我である永遠のパーソナリティはトロウンズの階級から一緒に地上へ降りて来たメタトロンという大天使と共に、一時的なパーソナリティである私たちの人生の青写真を作ります。

目標は霊的な成長、つまり私たちの中のキリストを顕現させる事です。そのために最適な環境を選んで、自らの自由意志によって地上へ降りて来たのです。

輪廻転生は、全く同じ人格が何度も生まれ変わるのではありません。永遠のパーソナリティが投影した一時的なパーソナリティとして、ひとつの人生を送って、そして再び永遠のパーソナリティへと地上での経験を手土産に戻ります。

そしてそのエッセンスは永遠の原子に記憶され、そこから基本元素の大天使であるミカエル、ラファエル、ガブリエル、天使シャマエルによって作られた新しい肉体を携えて、同じ個性を備えてはいるが違う人格として地上へ戻るのです。

そして、カルマの清算を果たしてもう地上への転生の必要がなくなった時、私たちは次の世界へと旅立つのです。

自分が果たしてどの程度の人間か、どの程度進化しているかを自分で判断することは、今のあなた方には無理なことです。判断を下す手段を持ち合わせないからです。人間は霊的視野で物を見ることが出来ません。四六時中物的視角で物事を考えているために、判断がことごとく歪んでおります。

魂への影響を推し量ることができない。そこが実はいちばん大切な点です。肉体が体験することは魂に及ぼす影響次第でその価値が決まります。魂に何の影響も及ぼさない体験は価値がありません。霊の力を無理強いすることは許されません。神を人間の都合の良い方向へ向けさせようとしても無駄です。

神の摂理は計画通りに絶え間なく作用しています。賢明なる人間──叡知を身につけたという意味で賢明な人間は、摂理に文句を言う前に自分から神の無限の愛と叡知に合わせていくようになります。

 そうした叡知を身につけることは容易なことではありません。身体的、精神的、霊的苦難が伴います。この三つの要素のうちの二つが絡むこともあれば三つが全部絡むこともあります。

以前に『いと小さきものへ』というタイトルで記事を紹介しました。

オーエンの『ベールの彼方の生活』からの抜粋ですが、このエピソードは稀な話ではなく実は身の回りによくある話のようです。

キリストは『地上においては卑しきものも、天においては偉大なものが多い。あなたたちはその事を今のうちに知っておいた方が良い』と、仰っています。

私たちは自分勝手な判断で愛を出し控える事がないでしょうか。どのような人に対しても親切でいられるでしょうか。神がその罪を許されているのに、私たちが勝手に人を裁く権利などあるのでしょうか。

『人から裁かれたくなければ、自分が人を裁かぬ事である。他人の目のおがくずを取る前に、まずは自分の目の中にある丸太を取り除くが良い。そうすれば他人の目のおがくずの取り方もよく分かるであろう。』

人間には人間を裁く事はできないのです。自分が何者で、何をやっているのかも分かっていないのですから。罪を犯した人に石を投げる権利など誰にもないのです。罪を犯したことのない人などこの世には存在しないのですから。

Capella✝️


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