
どうしようもないことを繰り返すという幸せ
年末31日から実家に帰省し、今日自宅に戻る。
その前に父の仏壇前に座り、おりんをチーンと鳴らし手を合わせて、帰省中お世話になりましたとお礼を伝えた。
変わらず不器用に笑う父の写真を眺めながら、話しかける。
「色々さ、あるよ。相変わらず不安に襲われたりさ。そんなとこお父さんそっくりやんね。でもま、なんとかやってるよ。やってく。」
そして最後にふいに出てきたのは、
「お父さんに会いたいなぁ。」
でももう会えないんだよなとふと我にかえる。
そう思うと、母とも後何回顔を合わせることができるだろうと頭をよぎった。
帰省は時に億劫で、早く今の家に帰りたいとも思う。
なのでお盆や正月に友人に帰省するの?ゆっくりできるしいいねと言われると表面的にはうん、そうだね、ゆっくりしてくるねとこたえるけれど、そんなゆっくり出来るものでもない。
むしろ今の自分の家でいるほうが楽だ。
私の実家は関西で、今居を構えているのは関東の北の方。
さっと親の様子を見に行く、孫の顔を見せに行く、用事をしに行くのとはわけが違う。
日常の一部ではなく、非日常なのだ。
まぁ、自分にとってあまり好ましくないカテゴリに入るんだな。
父に関しても会いたいとは思うけれど、いい思い出ばかりではない。
それでもやっぱりもう少し生きていて欲しかった。
声を聴きたくて、昔のガラケーに入っている留守電の父の声を、わざわざガラケーを充電して何度も聴くことがある。
もう繋がらない父の番号も消せないでいる。
10年も経つのに。
お互いに文句を言い合いながらでも、顔を突き合わせて話ができることがもう叶わないから感傷的にもなってるんだとも思う。
突然だったしね。
母も妹達も普段生活を共にしていないけれど、居ること、帰省することで会えることが当たり前だと思っているけれど、そうでないこともいつかあるんだよなとまた改めて思った。
父の仏壇前に座る前まで次の夏は帰省を見送ろうかと思っていた気持ちが揺らいでいる中で、息子が実家を後にする時に、「おばあちゃん、今度来る時は僕2年生だよ!夏休みだよ。楽しみに待っててね。」ともう次のお盆休みに帰省する約束をしていた。
みんなでじゃぁまた今度ね、夏ねと手を振って車を出した。
どんどんと小さくなる母の姿。
この姿を見るのもいつも胸がぎゅっとなる。
それも躊躇う理由のひとつなのかもしれない。
怖いんだろうな、あの姿を見れなくなる日も必ずくることを知っているから。
それでもまた今年の夏、帰省するかどうかまた悩み、億劫になるんだろうなとも思う。
そして結局は帰省して、なんだかなぁと色々と思うことがありつつも…をこれからも何度となく繰り返すんだろう。
それは非日常な帰省なのに、私のどうしようもなく愛おしい日常の中の幸せのひとつなのかもしれないとも思ったり。