真田山から始まる生い立ち(私が「家庭」を苦手な理由)
私の生まれは、大阪市天王寺区の真田山です。
現在の住所だと玉造2丁目に当たると思います。
日の出商店街という商店街の中に家がありました。
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土間があって、そこは本来店舗にするような作りだったんですが
奥に材木置き場があって、そこの仕事を父がやっていたので、商店街なのにお店は構えていませんでした。今考えると勿体無いけど、お嬢育ちの母は、「働く」「稼ぐ」なんて全く考えなかったようです。
その後、父母は離婚して、そこに父の妹夫婦が移り住んだので、おばにあたるその人が、早速洋品店を営んでいました。
さて、その材木置き場は誰の持ち物かというと、父の父、私の祖父です。
祖父はうちのまだ奥に住んでいて、材木屋をやっていたのです。
なんと、お妾さんが二人もいて、二人とも一緒に住んでいました。
しかも、そのうちの一人には私と同い年のお子さんがいて、その子供も同居。
つまり、その子供(女の子)は血の繋がりで言えば、私の叔母にあたるわけですが、私は私と同い年の叔母がいたわけです。
父にとっては妹と自分の子供が同い年。
複雑です😞
そして、うちにはお風呂がなかったので、その複雑な家に、私たち親子3人は、お風呂に入りに行っていたのです。
父親の妹家族も近所に住んでいたので、大勢で祖父の家にお風呂に入りに行っていた記憶があります。
当然、祖父も祖母と離婚していて、祖母は水間に一人で住んでいました。
水間のおばあちゃんは優しくて、とても好きでした。
逆に、祖父のことは嫌なやつって印象でした。
なんでも、その当時、各地の銭湯の下駄箱についていた鍵「おしどり」っていうのを、祖父が考案したとかで、大金が舞い込んできていたようです。
それで、お妾さんを二人も住まわせて、偉そうにしていたのかな?
子供心にも、その変な関係が産む妙な空気はわかったのでしょうか?
私が4歳になるかならないかの頃に、父母は離婚して、母は私を連れて、枚方に母方の祖父が建てた新居に出戻ります。
母方の祖父は、戦争で帝塚山の家を進駐軍にとられてから、知り合いの家を一家8人で点々とした後、浪速区新川(難波のあたり)で看板屋を営んでいました。
枚方に移ったのは、看板屋をやってる間に京阪電車の社長さんと仲が良くなり、香里ニュータウンの中に社長さんが持っていた土地を譲ってもらえたからです。
話は父親の方に戻りますが、離婚の原因は、父親がチンチロリンにハマって、ヤクザに借金をしていたからだそうです。
母の実家からもお金を借りていたらしく、詳しくは知りませんが、プライドの高い母方の祖母が、姉と一緒になって、離婚させたらしいです。
それにしても、父方の祖父が亡くなった後、お妾さん達とそのお子さんはどうされたのでしょう?
岡山におられるという噂も聞いたのですが、
父が母と離婚した後に再婚して生まれた子供たち(私の弟妹)に聞いても、知らないようです。
60年以上も前の話ですが、昭和の戦後は、社会だけでなく家族単位でも混沌としていたのだなあ、と。。。
そんなわけで、私は生い立ちからして「家族」という単位のものとは疎遠です。(どこからどこまでが家族かわからん!)
「家族」とか「家庭」とかって言葉が苦手です。
「子供家庭庁」って、何よ??意味不明です🤣
その後、私の枚方ライフが始まるのですが、それはまたの機会に。。