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キャニコムの事業承継

2014年11月より社長就任前の慣らしとしてすでに社長業を始めていましたが、正式に社長に就任したのが2015年1月からです。
2025年1月という事はとうとう丸10年となる。
どうやって10年を過ごしたのか、社長就任前はどんな感じだったのか社内は社外の評価など、どう変化していったのかを少し残したいと思います。

キャニコムの入社

2004年3月16日まで遡る事となる。
その年の3月15日までコメリという会社に勤めていた。広島の店舗で店長をしていた。自身にとって最後の店舗棚卸ということでこれを終えてから退職し、キャニコムに次の日から入社をした。
現在は全く違うと思いますが、20年以上前の会社は働き方改革というより、成長するためだからとオーバータイムワークが普通でした。一種の修行よりも洗脳に近い状態だったかもしれません。
この時代はどこも同じだと思うが、小売り・ホームセンターだと基本的にワンオペレーションで休みなどは無い。むしろ取れない状態であった。ほぼ毎日の12時間勤務は普通というスタイルだったのでかなり激務で身体的にも負担も大きかった。
無事にコメリでの店舗の棚卸を終え、ある一定の責任は果たしたと思う。それから福岡に戻り直ぐにキャニコムに入社することになる。

2004年の当時は実は社長は祖父、父は副社長、叔父が専務、姉が二人、妹が同期として入社する予定だったので、親族だけで6名いた。また親戚筋だけでもかなりいたので当時の社員数180名に対して親族や親族関係者が多い、まさに典型的なファミリーカンパニーでした。
また売上も40億で、資本金が3億7600万円と売上に相反して資本金の多さに当時は全く気付いていませんでした。
社長の親族がいきなり会社に入るという事を全く知らず、福岡の実家に12年ぶり戻り、入社を迎える。

「何しに来た」

これが最初に社内で言われた言葉でした。
えっ、僕は海外展開を推進したい父の要請で実家に帰ってきたつもりでした。僕が入社する前の2001年9月2日にCanycom Sales North Ameicaという合弁会社をワシントン州シアトル(正式に言えばBellingham)に設立していた。しかしこの会社が想像より機能をしていなかった。またその年から米国向けの関税が我々の製品に25%課税という形になり、アメリカの早々の撤退がささやかれていた時期だった。
ただ英語が全くできない、機械知識も全くない、当時社長の孫、副社長の息子が役に立つはずがない。
学生時代もそれに向けた勉強を一切していない。
ホームセンター時代で取得した資格は危険物取扱者として乙4類とフォークリフトの運転資格ぐらいだった。後は肥料と農薬関連の知識が少し詳しい程度なのでキャニコムではあまり役に立たない形だった。
簡単に言うと、事業承継の準備を全くせず、覚悟もない人間がいきなり創業家の人間として戻ってきたから「何しに来た」という言葉に繋がる。

先ずは何をしたらいいのかがわからない。
当時はPCやカメラなどは現在では会社支給が現在では当たり前だが、当たり前ではなかった。また会社の作業服に然り、支給されるものではなかった。購入するものであった。
そのルールがわからず、その当時に言われたことが「自分で買わないと仕事はありませんよ」という話。当時の新入社員はどうしていたのか?それも考えてしまうのです。
入社して最初に買ったのはPCと作業服、ビデオカメラを含めて、2年近くで貯めたコメリ時代の給料が一気に吹っ飛んでしまった。
あれ、これって僕だけの仕打ちだったのかな?と一瞬過りながらもキャニコムでの1年目がスタートするのです。
まず僕のミッションとしては1年以内に米国へ出張とアメリカの会社の再生だった。これがアメリカへ行く話に繋がるのです。

社長になるまでの10年、社長になってからの10年と少しずつ更新ができればと思いますが、ただのファミリーカンパニー、町工場の会社がどうやって成長し、海外55ヵ国(2024年12月現在)と取引ができるようになっていったのかを思い出せる範囲で残していきたいと思います。
現在のnote ではアメリカ編、オーストラリア編がありますが、インドネシア・マレーシア編、そして欧州編があります。これも全て密接している事項になるので追々と繋げられればと思います。
欧州での失敗事項がインドネシア・マレーシア開拓に繋がったり、チェコでの失敗がオーストラリアに繋がったり、そこそこやりたい放題でした。
書きたいことを少しずつ残せればと思います。

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