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クララに対する深い嘆き《幻想曲ハ長調》作品17

前回の続きです。


ライプチヒでの作曲家・評論家としての地位を投げ打ってまで、他の土地で活動を始めるという無謀ともいえる冒険を実行に移すとは思っていなかったヴィークの予想を裏切り、1838年の10月になると、シューマンはクララより一足先にウィーンへ旅立ちました。驚いたヴィークは、クララに『どんなことがあろうとシューマンとは結婚させない。』と言い渡しました。

ウィーンで新たに音楽評論雑誌を発行しようと、準備を整えていたシューマンを支援していた人物たちに、ヴィークは彼を誹謗する手紙を送るなどの妨害を続けたため、ついには雑誌の発行を断念する事態になってしまいました。

シューマンは苦しみながらも、ウィーンの地では多くの人物と知り合い、新しい音楽文化に触れ、知識を得て、その半年間で多くのピアノ曲が生まれました。

1839年の3月頃には、ウィーンへの移住は困難と、あきらめてライプチヒへと戻ることとなりました。そして4月、兄が危篤との知らせがあり、シューマンは実家に向かいましたが、すでに亡くなっていて、会うことができませんでした。

兄の死にショックを受けているシューマンのもとに『婚約を破棄しないなら、クララの相続権を剥奪し、彼女の演奏会の報酬も没収する』というヴィークの考えがクララより知らされ、このことはシューマンをさらに苦しめることとなりました。

そのような中の5月、クララのもとにピアノ曲《幻想曲ハ長調》がシューマンから届けられました。彼の最大傑作のひとつでもあるこの作品は、ヴィークによってクララと引き離されていた1836年頃に作曲されたもので、クララを諦めなければならないという絶望の淵にあって、狂気との境をさまよいつつ作曲されたことなどが手紙に記されていました。

「わたしは3楽章からなる《幻想曲》を完成しました。
これは私が1836年に細かいところまでスケッチしておいたものです。
その1楽章は、私の書いた最も情熱的なものです。
あなたに対する深い嘆きです。
完全に幻想的に、そして情熱的に演奏すること…。」

ふみくら書房「シューマン 愛と苦悩の生涯」


この曲についてクララは、シューマンにその感動を書き送っっています。

『私は喜びのあまり病気のようになりました。幻想曲を読みながら美しい夢を見ました。このように深い印象を受けたことはありません。』

ふみくら書房「シューマン 愛と苦悩の生涯」


二人の決意は揺るがなかったものの、結局法廷に訴えざるをえなくなり、1839年9月、ライプチヒ法廷に、『ヴィークが父親として結婚に同意するか、または父親の同意なしに二人の結婚を許可する』ように求め、結婚をめぐる法廷闘争が始まったのでした。

しかし、ヴィークは公判にも現れず、シューマンの飲酒癖や品行不方正を書き綴った報告書を提出したり、誹謗中傷する匿名の手紙を各所に送ったりとその妨害は手段を選ばず、さらにはクララが開く演奏会さえも妨害するほどでした。

二人が過ごした日々は過酷なものでしたが、それぞれの活動の意欲が失われることはありませんでした。

そして1840年の2月、突然歌曲が溢れ出るように作曲されたのです。ハイネの詩に作曲された『君は花のよう』が初めとなり、その後次々と歌曲が生まれました。

「君は花のよう」
君はまるで花のよう
とても優しく美しく清らかだ
君をみていると
哀愁が心に忍び込んでくる
僕は君の頭に手を乗せずにはいられないような気がしてくる
いつまでも優しく美しく清らかでいるよう神が君を守ってくださるようにと祈りつつ


「これら全曲がどれほど易々と生まれ幸せだったことか。
たいていはピアノに向かってではなく、立ったり歩いたりして作曲した。
今までと違って、指先を通じて人に伝えられるものではなく、もっと直接的でメロディにあふれている。
それらを作曲中はあなたを想って無我夢中でした。
私は何回となく、あなたのような婚約者がいなかったら、このような音楽は書けないと考えたことでした。」

ふみくら書房「シューマン 愛と苦悩の生涯」


そして、メンデルスゾーンやリストをはじめとする周りの人々の証言や助けもあり、ついに結婚に対する法的許可がおり、1840年8月1日、シューマンは日記に『最も幸福な日』と記し、1年と2ヶ月に及ぶ長い闘いが終わったのでした。

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