ヒグラシ
その声に気付くのが
そろそろ夏も終盤近くになり掛ける頃だからか
ヒグラシが鳴いているのを聴くと
どことなくやっと落ち着く気分になる
そして、わたしはどうしてだかあの声に
『悠久』を感じるのである
悠久って、、、と思われるかたもいらっしゃると思うが、公園のベンチに座って、そこへ何となくヒグラシの声が聴こえてくると、何故だか周りの景色が、遥か遠い昔から刻々と流れて今に至るその過程を想像してしまうのである
そのせいか、
実際にその公園で子供と一緒にした遊びも
松ぼっくりやドングリを集めて
木の枝や葉っぱなどで誂えた鍋に入れて
食事の準備の真似事をしたり
獲物を探して『狩り』(という散策)に出掛けては『やっぱりどこにもいませんでした!』という
決まり文句で帰ってくる『縄文ごっこ』と呼んでいたものであった
そのあとに訪れた際、もし縄文ごっこ跡地が荒らされていれば、獣の仕業としてまたストーリーが始まったものです
子供を連れてよく出掛けた公園は
近くに大きな神社があって
竹林、松林、鴨が泳ぐ池もあった
そういった環境が
そんな遊びを面白くしていたのだろう
飽きもせず長い時間遊んでいたものである
なのに
今でもその『縄文ごっこ』の話をすると
息子もよく覚えているのだが
残念なことに、楽しかった!というよりも
その公園の地面にポツポツ開いている
セミの穴が嫌だった記憶の方が強烈だという
確かに、夕方になると
集まってきたカラスが
土の穴から出ようとするセミの幼虫目掛けて
松の木の枝から急降下していたのを思い出した
そういえばそんな場面に出会すと、とても怖がっていたのを思い出す
では、ヒグラシの鳴き声についてはどうだろう?と尋ねてみた
ベンチに横並びに腰かけて、
きれいだねえー、と言いながら
一緒に聴いたあの鳴き声…
しかし、答えはまたもや期待とは裏腹で
何と『怖い』だった
何でも小学生になって、
友達と見たホラーアニメのなかで
ヒグラシが背後で鳴いていたのだそうだ
(その時、彼のなかでヒグラシの記憶が更新されていたのである)
確かにどことなくヒグラシの声は哀しく恐く
聴こえなくもない
これはもういくら
同じ時を共有していても各々だから仕方ない
と思うしかない
今年の夏も後半になり、
ヒグラシの鳴く声が耳に入る
(まだまだ酷暑であるが…)
街中で聴く声と
竹林の中で聴くその声はちょっと違う
自然の中では、
蝉の合唱が木々の中で反響し
音のシャワーみたいになって空から降ってきて
他の音がかき消されて
辺り一帯幽玄の世界になる
あの感覚が懐かしくて
またあの公園に足を伸ばしてみたいな、
と思うのだが、、、
多分、懐かしいのは自分だけ