痛みの共有

今も瓦礫の下で苦しんでいる人がいるのに、大切な人の安否さえわからない人がいるのに、それでもなんの変哲もない日々を送れている自分が怖い。

東日本大震災のとき、小学5年生だった私は九州に住んでいて、被災地域に行ったこともなければ、そこに知り合いもいなかった。それでもテレビから流れる地震や津波の映像に恐怖を感じたし、そこで暮らす人々を心底心配した。一日中テレビに張り付いていたし、眠りにつくのにも苦労したと思う。

今回はどうだろう。地震発生時刻、自分の携帯のアラームが鳴り響いたが、「あぁ、またどこかで地震か」と思いながら、すぐにアラームを止めた。震源地と震度を確認して、その後はほとんどニュースをチェックしなかった。

次の日のアルバイト先のテレビでは、箱根駅伝が流れていた。私も周りも例年通りの1月2日を過ごしていた。


自分がもし瓦礫の下で寒い夜を耐え忍んでいたとしたら、もしくは道路が遮断されて食料も水も電気もガスも電波も届かない状況にあったとしたら、「今すごく大変なことが起きていて、外の世界の人は大層心配してくれているだろう。私たちを助けようと皆が一生懸命になってくれているだろう。」と考えると思う。それが(良心を持つ)人として当然の義務だと考えるだろうし、ある種希望にさえなると思う。

それでも実際は、外の世界は通常通りで進んでいる。皆心配しているとは言っても、それは知り合いがいたりしない限り、心の底からの心配ではないだろう。「大変だね」、「可哀想だね」の範疇を超えない心配である。

実際、こんなことを呟く私も、どの団体が募金をするのに安全かを調べることさえ億劫だと感じていて、結局何もできていない。ネット環境が未だに整っていない人だっているのに。

正直、募金したり支援物資を送ったりすることだけが、被災者を助けることだとは思わない。何かアクションを起こすことだけが正義ではないと思う。なので、ここで問題なのは、募金をしている/していないの話ではなくて、それを億劫だと感じているかどうかである。つまり、自分にとってどれだけ大きなことだと感じているか。

個人には個人の問題が起きて、それは今回のような災害といった大きな規模のものであることもあれば、人間関係のもつれなど小さな規模のものもあるだろう(いくら個人にとってのインパクトの問題であるとは言え、災害と人間関係のもつれを同列に扱うのは問題があると思うし、被災経験の無い私があれこれ言う権利も無いと思うが…)。それが何であれ、自分にとっての大きな痛みが周りに理解されない、言い換えれば、真の意味での痛みの伝達や共有が不可能であるとすれば、なんというか、本当に生きるのは苦しいと思う。周りが救いにならないのであれば、結局内に引き籠もるしかないと思う。

どうなんだろう。

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