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愛は全方向に

(この記事は「ライ麦畑でつかまえて」のネタバレを含みます)


今朝、駅構内で小さな女の子が走って来て私にぶつかりそうになった。何かこましゃくれたことを言っていた。父親が「すみません」と謝った。
そのまますれ違った。

その時、私は何故だか不意に幸福感に包まれ、マスクの中で笑った。
それは、大袈裟に言うと世界が愛でできていることを悟った瞬間だった。

例えるなら「ライ麦畑でつかまえて」のラスト、主人公ホールデンが、回転木馬に乗った妹フィービーを見つめながら幸福感に包まれたように。

雨が急に馬鹿みたいに降りだした。全く、バケツをひっくり返したように、という降り方だったねえ。子供の親たちは、母親から誰からみんな、ずぶぬれになんかなってはたいへんというんで、回転木馬の屋根の下に駆けこんだけど、僕はそれからも長いことベンチの上にがんばっていた。すっかりずぶ濡れになったな。特に首すじとズボンがひどかった。ハンチングのおかげで、たしかに、ある意味では、とても助かったけど、でもとにかく、ずぶ濡れになっちまった。しかし、僕は平気だった。
フィービーがぐるぐる回りつづけてるのを見ながら、突然、とても幸福な気持になったんだ。本当を言うと、大声で叫びたいくらいだったな。それほど幸福な気持だったんだ。なぜだか、それはわかんない。ただ、フィービーが、ブルーのオーバーやなんかを着て、ぐるぐる、ぐるぐる、回りつづけてる姿が、無性にきれいに見えただけだ。全く、あれは君にも見せたかったよ。

J.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」


「ライ麦畑でつかまえて」を読んだのは二十歳の時だった。このラストシーンの“悟り”については、なんとなく雰囲気でしかわからなかった。

今朝、あの小さな女の子と衝突しかけた時、それは確かに私に降りて来た。
愛とは本来、「妻」とか「仲間」とか「祖国」とかいうひとつの方向ではなく、全方向に向かっているものなのだと。

男女の間に友情はあり得るか、という問いがある。友達の間の愛情を友情と呼んでいるだけで同じものだ。
人は他者との間に境界線を引き、愛に種類を作ってこの線からこちらにだけこの愛、向こう側にはそれなりにと区別する。

本当はすべてひとつの愛で、区別なんかしなくていいんだってこと。

「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいないーー誰もって大人はだよーー僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだーーつまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっからか、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」

J.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」


「ライ麦畑でつかまえて」は永遠の青春小説と銘打たれている。汚い社会に抵抗していても、少年はいつか大人になる。けれど、無垢な子どもが象徴するものは、永遠で完全な全方向の愛で、それは失われたりしないしいつでもここにあると、今朝の体験が教えてくれた。


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