(この記事は「ライ麦畑でつかまえて」のネタバレを含みます)
今朝、駅構内で小さな女の子が走って来て私にぶつかりそうになった。何かこましゃくれたことを言っていた。父親が「すみません」と謝った。
そのまますれ違った。
その時、私は何故だか不意に幸福感に包まれ、マスクの中で笑った。
それは、大袈裟に言うと世界が愛でできていることを悟った瞬間だった。
例えるなら「ライ麦畑でつかまえて」のラスト、主人公ホールデンが、回転木馬に乗った妹フィービーを見つめながら幸福感に包まれたように。
「ライ麦畑でつかまえて」を読んだのは二十歳の時だった。このラストシーンの“悟り”については、なんとなく雰囲気でしかわからなかった。
今朝、あの小さな女の子と衝突しかけた時、それは確かに私に降りて来た。
愛とは本来、「妻」とか「仲間」とか「祖国」とかいうひとつの方向ではなく、全方向に向かっているものなのだと。
男女の間に友情はあり得るか、という問いがある。友達の間の愛情を友情と呼んでいるだけで同じものだ。
人は他者との間に境界線を引き、愛に種類を作ってこの線からこちらにだけこの愛、向こう側にはそれなりにと区別する。
本当はすべてひとつの愛で、区別なんかしなくていいんだってこと。
「ライ麦畑でつかまえて」は永遠の青春小説と銘打たれている。汚い社会に抵抗していても、少年はいつか大人になる。けれど、無垢な子どもが象徴するものは、永遠で完全な全方向の愛で、それは失われたりしないしいつでもここにあると、今朝の体験が教えてくれた。