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推しに花束を

コーヒーが飲めるようになったのは確か中学2年生のときだった。学校の友人の前でかっこつけてひと口、舐める程度の量をすまして口に含んでみたら、案外飲み込めたのである。その瞬間まではミルクや砂糖を入れたものしか飲めないと思っていたし、確かにそうだったのに、突然である。

思えば辛い中華料理をおいしいと感じるようになった時もそんな感じだった。くさみのある羊の肉も、絶妙に苦そうなズッキーニも、そうやって食べられるようになってきた。初めてジェットコースターに乗った時もそんな感じだったなあ。

それまで特に良いとも思っていなかったものが、ある瞬間ときめきと驚きが混ざったような衝撃でもって体を走り、時にそれが大好きなものになる。推しとの出会いもそうだった。

推しのことは、別に良いと思っていなかったわけではない。ただ推しの所属するグループ全体が好きで、特に推しだけが際立って好きだ、というわけではなかったということだ。

それまでも好きな芸能人ができたことはあった。この俳優の出ている映画は大体おもしろい、というのもあったし、このモデルさんのようになりたい、というのもあった。

2020年、世界は嘘のような速度で変わってしまった。街にはマスクをした人が増え始め、大学の卒業式や入社式は中止になった。周りの友人たちは海外への卒業旅行をキャンセルし、じきに海外はおろか電車で隣の駅に行くことも難しくなった。

環境の変化が人間にとって多かれ少なかれストレス源になるということは広く知られていると思うが、コロナ禍での変化はあまりに急激すぎて、ついていけなかった人がほとんどなのではないかと思う。わたしもそのひとりだ。

しかも大学を卒業して社会人になったり、長期にわたって暴力を振るわれていた当時の恋人のもとから離れたり、私的な、それでいてかなりストレスフルな変化が重なった。

春の間は、家から出ない生活もこれはこれでありか、と思って「おうち時間」を楽しんでいた。しかし狭い自室に閉じ込められたまま試せるものは大体試してしまい、夏になるともう息苦しさに耐えられなくなっていた。

息苦しさをごまかしごまかし、Twitterで流れてくる不本意な日々への悪態に心の中で連帯しながら2020年をなんとかやりすごすしかなかった。

そんな時に推しを見つけた。奇しくも世の中は「一億総オタク社会」、おそらく酸素の薄い世界を生きる中で、コンテンツやエンタメに救いを求めた人がそれほど多かったということだろう。

はじめは推しの出演しているテレビ番組を前よりもちゃんとチェックすることだった。なんとなくつけていたテレビにその姿が映って、あ、嬉しい、という偶然の高まりでは足りなかった。確実にその姿を見たかったし、推しが出てくることが分かっていれば画面に集中することができる。

推しの姿を見た後はTwitterをチェックする。推しを含むグループにはかなり大規模なファンコミュニティがあって、皆ハッシュタグをつけ、各々の推しのここがよかったよね、とかを語り合う。

それもまた楽しかった。以前はコンテンツはひとりで楽しんでなんぼだと思っていたが、SNS上で顔の見えない、しかし同じ対象を推している人たちと感想を共有することは新鮮だったし、いわゆる「古参」のひとが新しい情報をくれることも多かった。

次第に「推し活」のやりかたもわかってくる。テレビ番組をチェックするだけではなく、推しの写真集とか推しが載っている雑誌とかを予約して買ったり、推しの活動費に少しでも貢献したいと思って人生で初めてファンクラブなるものに入会したり、奇跡的なタイミングであった推しの舞台にて初めての観劇をしたり。推しはわたしにたくさん、初めての体験をさせてくれた。

推しの好きなところは挙げるとキリがないが、笑顔がかわいいことや歌と楽器が上手なことなんかより、佇まいに意思を感じさせるところが最高だと思う。

推しは大きな病気を経験している。それによる後遺症も残っているし、そのことで活動が難しい時期もあった。そういう、我々が見てもわかりやすいことだけでなく「推される」仕事をすることは、想像以上のしんどさを抱えることだと思う。

しかし、推しはそのしんどさを我々には見せない。病気のことも、普通ならば「困難を乗り越えた人間」としてあれこれ語りたくなるだろうに、必要な場合以外語らない。そこには推しのプロ意識だけではなくて、自分のしんどさを消費させてたまるかという意思を感じる。

誰かを推すということは、その誰かの人生を少なからず消費することであるということは常に覚えておきたい。

おそらく、この文章を読んでくれている人の中には自分の推しのことを考えている人もいるのではないだろうか。「推し」という存在はある意味普遍的な存在なのだと思う。「推し」たちは皆、わたしたちの前でキラキラした「推し」の姿を演じてくれている。

しかし「推し」は結局人間なのだ。わたしたちの前で輝いて見せてくれているだけで、人間なのだから傷つきもするし怒りもするし、間違いだって犯す。言ってしまえば「推し」だって他人なのだ。

最近ネットでの誹謗中傷が社会問題になっていて、実際に自分の推しがそういったことのターゲットになった人もいるかもしれない。あるいは、SNSなどで多くの人が推しの姿を見られるようになった今、推しが「炎上」した人もいるかもしれない。

推しがもし、間違いを犯したとして、わたしはどうするだろうか。ファンを辞めるかもしれない。推しは悪くない、と思い込むかもしれない。

いま現在は、たぶん、推しの過ちを悲しみつつもファンを辞めないと思っている。だって推しは人間だから。推しはそんな人ではない、と思ったとしても、それはわたしが勝手に推しを理想化していただけなのだ。人間なのだから過ちを犯すことだってあるし、たった一度の過ちで判断されたらたまったものじゃないだろう。

わたしたちはそれぞれの推しの人生を多少なりとも消費している、ということは確かだが、一方でわたしたちは推しという「他人」の人生の一部を見届けさせてもらっている。

会ったこともない他人の人生によって、自分の人生が明るいものになるなんてかなり不思議だ。だけど、わたしたちにとってわたしたちの推しはそんなパワーを持っている存在だ。

わたしは推しの名前をあえてここには書かない。ステージに立つ姿を「見られる」ことに自覚的である彼は、自分の名前を知らない場所で文章のネタにされることを喜びはしないと思うからだ。

もし今後推しがステージに立つのをやめてもそれはそれでいい。推しの人生の選択を、ファンであるわたしたちは黙って見守ることが、ファンなりの「愛」であり推し方だと思う。それに、推しが「推し」であることをやめたとしても、推しが存在していることに変わりはない。いてくれればそれでいいのだ。

たくさんの人に活躍を見届けられている一方で、たくさんの銃口を向けられて、ときに本意でない攻撃を受けるかもしれない。人生を勝手に、好きなだけ消費されて傷つくかもしれない。だけど、あなたが見せてくれている人生の一部に照らされている人生も確かにあるよ。わたしたちに推させてくれてどうもありがとう。

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