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「褒め」に殺される

体育の成績がずっと1だった。

体育が苦手な人は世の中にたくさんいると思う。泳げないだとかボールをコントロールできないとかダンスが苦手だとか。

わたしの場合は走り方がわからなかった。何を言っているのかわからないと思うが、本当にその通りだった。

普段の生活では歩けるし走れるのに、50メートル走の測定になった途端、右と左のどっちの足を出していいのかわからなくなり、必ず途中でパニックになって止まってしまう。

そもそもこの右と左という概念自体わたしにとっては難解なもので、現在23歳だが、いちいちお箸を握る動作をしないとどちらが右だかわからない。

そんなもんだから、短距離走は途中で止まるし、サッカーは相手のゴールがどちらだかいつまでもわからないし、跳び箱はあの用途不明な箱に向かって走るという動作の意味を考えてしまって止まらないし、体育の成績はいつまでも1だった(唯一得意だったのが水泳と持久走、ブラジルの海の近くに住んでいたし持久走は何も考えなくて済むから)。

体育の先生はわたしがふざけていると思って怒った。なぜ体育教師というのは体育が苦手な生徒の気持ちを解そうとしないのだろう、それが仕事の一部だろうに。

両親に成績表を見せると、体育の授業態度が悪いのだろうと勝手に疑われ、もっと一生懸命やれと根性論の叱りを受けた。

わたしのこの性質はいわゆる「運動音痴」というものではなく、「極度の不器用」と表すのが正しいのだと思う。

実際わたしは不器用で、学校のプリントを絶対になくすかぐちゃぐちゃにするかのどちらかなので、帰宅してすぐ母親の目の前でランドセルを逆さにひっくり返させられていた。

「不器用」と言われている人たちは何種類かに分かれると思う。丁寧な作業が苦手な、がさつなタイプの人。細かい仕事に耐える集中力を持たない人。彼らはたぶん、修行僧のような精神状態になり、かなりの「努力」をすれば器用に振る舞うことはできるのだ。たぶん。

わたしのは「自分の体の使い方がわからない」タイプの不器用。例えばラジオ体操ひとつをとっても、人の動作を真似ることができない。だけど「両手を伸ばしたまま大きく上にあげて」というように説明されればできる。

小学校の運動会の組体操がしんどかった。なぜみんな先生のお手本をすぐに真似できるのかわからない。それにわからないことに理由などないのだから、わからないものはわからないのだ。そして、わからないのだから当然「どうしたらわかるのか」もわからない(今は色々なことを積み重ねて、言語できちんと説明されればわかることを知っているが、当時のわたしにそれは無理だった)。

大学3年生から長期インターンを始めて、色々な大人たちに会う。その大人たちは、特に「クリエイティブ」な仕事をしている大人たちは、わたしをいつも同じ言葉で褒めた。

「小島さんっておもしろいよね!」

なにかを聞かれて、普通に返す。なにか、とは日々のたわいのない質問だったりニュースについての質問だったり、仕事や将来についての質問だったり、する。わたしは元々真面目というか、嘘をついても仕方がないと思っているので思ったことを正直に答える。すると返ってくるのは「小島さんおもしろいね〜!」だった。

もちろんその大人たちは称賛のつもりで言ってくれていたのだろうし、その「おもしろい小島さん」が繋いでくれた縁もあった。うちの学生でおもしろい子がいるから会ってみない?というふうに別の大人に声をかけてくれて、わたしがまた普通に話しているだけで、本当におもしろいね〜!となるのだから。

しかし、そう言われるたびにわたしの中には違和感があり、最近その正体は怒りであったと気づいた。

おもしろがられようと、笑わせようと思っておもしろく振る舞っているわけじゃなく、本当に真面目に振る舞っているのにおもしろいと言われ。

例えばわたしの、いわゆる「普通」と違っている部分を「おもしろい」と取り上げられ。

でもわたしはずっと普通になりたくて、普通に生きたいのになぜか普通に生きられない、みんなと同じようにしたいのになぜかできない、という毎日の繰り返しだったのである。

就職活動をしていた頃、周りの子たちは「平凡」と思われることを恐れていた。平凡だと思われたら落とされちゃう、「個性」があるって思われないと就職できない。

しかし一方で、わたしは生まれてからの22年間、確かにずっと「普通」になりたかったのである。

「普通」になりたいのになれない、自分なりの普通を頑張っているのに「普通」からはみ出してしまった人間のことを「おもしろい」と一括りにするのは暴力的だし、あまりに失礼なのではないですか。

その「おもしろい」が「普通じゃない」ことを体よく言い換えた言葉だなんてわかってるし、ずっと「普通」になりたかった人間がそう言われたときのショックを考えたことがありますか。

「褒め」ならなんでも言っていいわけじゃないよね、と思う。短所を長所に言い換えるとか、自分にとっては短所でも他人からすると長所、とか、聞こえはいいけど、結局自分で愛せなきゃそれは長所じゃなくない?と最近ずっと思っている。

特に「おもしろい」とか「かわいい」とかの抽象的な、というか雑然とした褒め言葉は暴力生を持っている、と思う。例えば「おもしろい」ならば「自分とは違う視点で興味深い」だとか「かわいい」なら「独特な魅力があって素敵」とか、そういうのならわかるんだけど、無責任に「おもしろい」「かわいい」だけを放られても処理の仕方がわからないし、本人が愛し方をわからないままなんとなく凝ってしまうわけである。

そして、その言及したい特徴を「独特でおしゃれ」とか「斬新な感じでおもしろい」とか言えないならば別にそれは言及しなくていいんじゃない?とも思うのだ。ただ「背が高いですね」とか「髪が茶色いですね」とか言われても消化の仕方に困るだろう。そのあとに「素敵ですね」とついているならともかく。

「おもしろい」学生だったわたしはそのまま3社目のインターン先に入社し、たぶん「おもしろい」社会人になっている。きっとこのまま「おもしろい」アラサーになるし、もしかしたら「おもしろい」母親になるかもしれないし、やがて「おもしろい」おばあちゃんになるだろう。

しかしそうなってもわたしは絶対に他人に「褒めダッシュ」をしないと決めている。褒めるときは相手が噛んで飲み込めるよう、自分の気持ちと言葉を相手の目を見て伝える。

そう心に決めているのだが、わたしはいつまでも恋人に彼の素晴らしいところを伝えられずにいる。わたしたちは付き合って5年を迎えた。

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