2月の終わりを願う
2月は、わたしにとって人が死ぬ月だ。
親しい人間が死ぬ、という体験は、人生で1回で充分だと思う。というのは、わたしがそれを何度か体験してきてそのたびに感じてきたことだ。
一時期預かってかわいがっていた子猫がもらわれた先で突然死した。昔お世話になった人の訃報を、惰性で退会せずにいたグループLINEで知った。昔の友人が自殺したことは、その子のお姉さんがメールで伝えてくれた。
鮮明に思い出すのは人のいなくなった高校の教室。部活の全員がその教室に集められ、なんだなんだと騒いでいたら、顧問の先生が静かにある部員の訃報を伝えた。その人とわたしはすごく親しい関係だった。その人が亡くなる直前、わたしたちは春休みに遊びに行く場所の相談をしていた。それらはすべて2月だった。
わたしは心の不調がすぐに体調に表れる性質で、人が死ぬとしばらく食べものの味がわからなくなる。人間の形をギリギリ保つためだけに最低限のカロリーを無機質に摂取する。
誰かが死んだとき毎回思うのは、どうしてわたしじゃなかった?ということだ。誰かが死ぬとき、その人が死ぬということはどうやって決められるのだろう。どうして死んだのはわたしではなかったのだろう。わたしなんて死ぬために毎日生きているような人間なのに、たまたま23年も生きながらえている、なぜ。
好きな人が亡くなったとき、仲の良かった物理の先生が放課後に何時間も階段の踊り場で話をしてくれた。
「わたしも数年前に息子を亡くしました。今でも、もし生きていたら、などと考えます」
先生は教室の半分が居眠りを始めると、物理の授業を中断して思想の話をした。授業の人気がなかったというよりも、声が美しすぎてつい副交感神経が優位になってしまうのだ。わたしはその時間が好きだった。先生はいつも、変わり者の先生のふりをしていた。
「他の人はいつか彼のことを忘れるでしょう。だけどあなたはいつまでも彼のことを覚えていなさい。あなたが彼の年齢になっても、大人になっても、子どもを持っても。そして彼の命日には彼のことを思い出して、できるならその思い出を誰かと話し合ってください。それが、祈るという行為です」
わたしは最近、家に植物を置くようになった。昨年の秋からアートフラワーを置くようにはなったが、やっぱり生花のみずみずしさと緑臭さが好きだ。昨日は自分のためだけに、表参道の花屋からかすみ草とバラの小さな花束を持って帰ってきた。先週くらいからリビングでうさぎサボテンを育てていて、多肉植物のおもしろさにずぶずぶと埋まっていっている。花瓶や鉢にこだわるのもまた楽しい。
そして最近はまた大変なことが多くて(病気の調子が思わしくないとか確定申告とかetc...)、精神的には地面を這っているような状態だ。実際体調にも表れてきていて、自律神経の不調が今までに増してひどいとか、自分の名前や電話番号をふと忘れてしまうとか。食欲がないので食事もろくにしていない。まさに死んだように生きている。
そんな状態だからよけいに生に惹かれているのかもしれない。フラスコみたいな花瓶に刺さっている緑や、サボテンの細かい棘の1本1本が愛おしい。大学時代からの友人が結婚することにしたらしくて、証人になってもらうかも、というのも快く引き受けた。先日丸の内のスターバックスで久しぶりに会った彼はティファニーのリングをしていた。
どんな状態にしても自分の情報を忘れてしまうのは不便なので、いつも持ち歩いている手帳に自分の基本情報をメモした。ふと思い立って、隣のページに「自分が死んだらしてほしいこと」をメモした。わたしが事故に遭って死んでもこの手帳があればかける迷惑は少なくて済むだろう。死んだら連絡してほしい人、パソコンやスマホのデータ、微々たる貯金の処理について、わたしの持ち物は大切に使ってくれる人に譲ってください。骨は母に預けるか、無理なら海に撒いてください。
今朝ぼんやりと観察していたらサボテンからちいさな突起が出てきていることに気付いた。リビングは日当たりがいいし床暖房もあるしで暖かいからもう花が咲くのかもしれない。
あれほど冬が好きだったのに春が待ち遠しい。そして今年はどうか、誰も選ばれないでほしい。それか、せめてわたしであって。