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誕生日を祝うことは自尊心のドーピング

 きょう、23歳になった。
 わたしが生まれた日はアウストラロピテクスのルーシーちゃんが発見された日、モンゴメリとリドリー・スコットと宮崎あおいが生まれた日、オスカー・ワイルドが亡くなった日。ちなみに本みりんの日でもあるらしい。

 昨年まで、わたしは人の誕生日を祝うのは好きなくせに自分の誕生日にはさして重きを置かない人間だった。
 幼い頃は誕生日がすごく楽しみだったけど今では別にそんなことないなー、というのが大人な仕草だと思っていた。

 しかし気分が変わり、今年はなんとなく誕生日をアピールしてみることにした。結論から言うと今年の誕生日はものすごく、最高に幸せだった。

 今月の3連休、大学1年の頃から仲良くしている友人の家でのお泊まり会ではサプライズでサーティワンのピカチュウのアイスケーキが登場した。写真はピカチュウを八つ裂きにしているニッコニコのわたしである。


 そしてその翌日は親友がZARAでコートを買ってくれた。深みのあるボルドーで、形がものすごくきれいで、わたしの体のいいところ(お腹がしっかりとくびれていて、腰に丸みがある)がすごく出るコート。この冬は着倒そうと思う。

 先週の土曜日は生まれて初めて、お誕生日ディズニーというものをした。パークに入ってキャストさんにお誕生日のシールをもらうと、すれ違うキャストさんがみんな声をかけてくれる。こんなにたくさんの人に「お誕生日おめでとう」と言われたのは初めてだ、とびっくりしてしまった。


 そして昨日は付き合って5年を迎えた恋人が誕生日を祝ってくれた。気になっていた展覧会に行き、わたしの買い物に付き合ってもらい(クリスマスカードと絵本を購入した)、素敵なプレゼントを買ってもらい(FEMMUEの美容液とザラホームのルームフレグランス)、水槽が目の前にある席でおいしいケーキを食べさせてもらった。実は今回のデートの1週間くらい前から、彼に「カニちゃん(ホワイトデーに彼がプレゼントしてくれたカニのぬいぐるみ)連れてきてね!」と念を押されていたのだが、水族館のようなレストランに映えると思ったらしい。その発想がすごくかわいくて愛しくて、ケーキが出てきた時には思わず「結婚しよう!」と言ってしまった。

 そしてきょう、午前リモートワークをしていたら、今年知り合ってあっという間に仲良くなりお仕事まで一緒にさせてもらったお姉さんと、大好きな上司からそれぞれお花が届いた。わたしもついに誕生日に花束をもらう女になったのだな、と思った。

 夕方には富山の旅館で働いている親友からキッシュが届いた。とある事情でお金が必要で生活を切り詰めているのを知っていたからなんだか泣きそうになってしまった。親友は昨年男の子になって、名前も変えた。新しい名前を頑なにわたしに言いたがらなかったくせに、送り状にはあっさりと新しい名前が書かれていた。

 そして色々な人からLINEやSNSでおめでとうのメッセージが来た。友人だけじゃなく、高校の頃仲良くしていた先生や大学の頃少しやっていたダンスで関わった人、大学のゼミの恩師などから。

 これはきょう、父が買ってきてくれたジャンポールエヴァンのケーキ。

 誕生日はものすごく大切な日だということを、23歳になって初めて知った。

 自分にとって大切な人の誕生日が大切な日なのはイメージしやすいと思う。その人がその日、生まれてきてくれなければ自分と関わることはなかったのだから。その人がその日まで生きて、新しく歳を重ねてくれたのだから。

 しかし、自分の誕生日を自分で大切にすることは自尊心を高めるのにうってつけのイベントだと思う。

 自尊心の筋トレ、と呼べる行為は色々あると思う。休みの日にベッドの上で、着心地の良いルームウェアでのんびりする。自分のためだけにお気に入りの服を着て、自分のためだけにばっちりメイクをして、自分のための買い物に行く。お茶を飲むときに普段のマグじゃなく、お客さんに出すようなよそゆきの食器を使う、など。

 つまり「自分はそれに値する人間である」ことを感じられる行為を積み重ねることを自尊心の筋トレと言えると思う。

 自分の誕生日を大切にすることはそれはそれはもう、自尊心のドーピングといえるのではないかと思った。

 大切な誰かと特別な体験をする、たくさんの人が「自分が生まれてきた」ただそれだけの日におめでとうというあいさつをしてくれる、普段会えない人から素敵なプレゼントをいただく……。
 それらを体験して、自分はそれらをしてもらうに値する人間であると改めて自覚すると、それだけで涙が出てきてしまいそうになった。

 23歳の目標は「強い女になる」こと。
 ここ数年、なりたい大人は?とか将来の目標は?とか聞かれると「強い女」と言っていた。
 たとえば数十年先、おばあちゃんになったとき。ほんわかとした雰囲気の、みんなから愛されるにこやかなおばあちゃんも可愛らしいし、和服の似合う凛としたおばあさまもまた趣がある。しかし、わたしがなりたいのは、髪を紫にしたりツーブロックにしたり、ロリータだろうがなんだろうが自分の好きな服を着まくって、ヒールを履いて自分の好きな街を闊歩する「強い女」。そんな人間として老いて、そんな人間として死にたい。ちなみに、イメージとして思い描いているのは夏木マリ様。

 強い女はきっと優しい。強さは優しさである。優しいというのはすごく難しくて、それは冷たさとか残酷さとも表裏一体になりうるのである。例えば「誰にでも優しい人」は「誰も愛していない人」かもしれないのだ。

 わたしのなりたい「強い女」は優しくて誰かを愛している人。というか、誰かを愛しているがゆえに強くいられる人。だからある意味、本来は弱い女なのかもしれないが、優しいから強くいられる人。

 そういう意味での「強い人」は「自分を大切にすること」がなんたるかを知っているはずだ、と思うのだ。
 DV元彼から逃げてきたときには「自分の感情を認めること」が「自分を大切にすること」の一端だと学んだ。
 「自分を大切にすること」として学んだことの2つめは「自愛」、つまり自分をいたわり自分で自分をもてなすことの大切さ。これが先に述べた「自尊心の筋トレ」と呼んでいるものでもある。
 そういう意味でこの数週間の自尊心のドーピングは自愛の最たるもので、そしてそれに申し訳なさも後ろめたさも一切感じずに、嬉しいなあと受け止めることをひたすら努力した。

 23歳になったきょう、確実に22歳よりは強い女になれたと思う。

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