現在地:うつの底
「うつの底」というのは最近読んだメンタルヘルスの本に書かれていた表現で、大きめな抑うつに襲われて何もできない状態のことと解釈したんだけども、23年の人生のうち大半をうつと一緒に過ごしているわたしにとっては「ああ、あの状態ね、わかるわかる」というものでした。
23年の人生と書きましたが、そのうち半分以上はうつを飼っているのではないか、と思っています。この前行った精神科で、先生に「最初に死にたいと感じたのはいつのことですか?」と質問されて、初めて振り返ってみましたが、おそらくそれは10歳くらいの頃。その頃から「死にたいな」という思いがベースにある毎日を送ってきて、最初のうちはゆるかったうつが段々と体力をつけてきたのだろうなという感じです。
つい先日、小学生の頃からの親友と会いました。彼女は医学生でもうすぐ研修先の病院を決めるところなのですが、わたしのうつの話をしている中で「うつは国民病だからねえ」という言葉が出てきました。それはその通りで「まともに」生きていれば、うつになる可能性は誰にでもあると思います。
そういうわけで、人生で「うつの底」を経験していない人は本当に幸福なひとなのだろうなと思うのですが、うつの底まで降りたことのない人はそれを「とにかく気分が落ち込む」「精神的に辛い状態が続く」「死にたくなってしまう」という状態だと想像するのかもしれません。
それも確かにそうなのですが、個人的にうつの底は「何もできなくなる」場所です。生活、というかそれ以前の生命維持に関するあらゆることへの気力が湧かない。空腹でも食欲が湧かないし、外に出て運動したいとも思わない。とにかく何もしたくないし、気づくとひたすら眠っている。頭が働かなくて何も考えられず、まるで他の誰かに頭を乗っ取られているような感覚。少なくともわたしはそういう状態でした。
で、こうなると今までできていたことが何もできなくなる。休みの日にひとと会うこともままならず(そもそもベッドから起き上がることが困難だし、メイクをしたりきれいな服を着たりということもかなり体力を使うし、外に出て人ごみに行こうものならもうその場でしゃがみ込みたくなる)、食事をすることもままならない。うつには運動が良いだなんて言うけれど、ベッドから起き上がって動きやすい服に着替えることがどれくらい困難か、ということなのです。
ちなみに、誰でもこのうつの状態になってしまう可能性はあると言いましたが、発達障害と言われるものを持っている人は特にこうなってしまう可能性が高いらしい。例に漏れずわたしもそうです(今度詳しい検査を受けることになりましたが)。「普通」にやりたいのに「普通」にできず、小学校のクラスメイトにいじめられたり中学受験のストレスもあったりでこうなったんだろうなと思っているし、そういう人は多いだろうなとも思います。
客観的に見て、きっとわたしは明らかに「うつの底」にいます。だけど、自分がそこにいることをたぶん完全には認められていない。体の病気でも心の病気でも、とにかく病気と一緒に生活している(というか、せざるを得ない)人はこの感覚を少しわかってくれるのではないかと思っています。
わたしの母は今60歳で、大人の女性のお守り・POLAの美容液や美容医療の力を借りながらも、いつも鏡を見ては目の下のたるみとかシワに文句を言っています。娘であるわたしから見ると、彼女は60歳よりもずっと若く見えるしものすごくきれいな女性なんだけども、彼女は自分の「老い」に納得できずにいる様子です。それは一般的な基準というより、昨日の自分、一年前の自分、10年前の自分、そういうのと比べてのものなのでしょう。
たまに「自分はどうしてこうなってしまったんだろう」と落ち込んでしまう時があります。家族仲も良いし、教育もきちんと受けさせてもらったし、友だちにも恵まれているのに、どうしてうつになってしまったのか。どうして発達障害を持って生まれてきてしまったのか。落ち込みつつ、どこかにきっとあるであろう理由を探します。小学生の頃いじめられたから?親しかった人から暴力を受けたから?発達障害というのはどうやら遺伝するらしい、精神科で発達障害の説明を受ければ受けるほどわたしの父もそうなのではないかと思えてくるし、父のせいでわたしは……。
そうやって理由を探そうとするのは、きっと自分の今の病気に納得がいっていないからでしょう。でも、どれかの理由に落ち着いてしまいたくはない。そうなったらきっと、わたしは「100%患者」になってしまうから。
わたしは自分の病気や障害を隠すべきものだとは思っていないし、それらのせいで突然具合が悪くなることもあるので(この「突然具合が悪くなるかもしれない」という心配もきっと病気と生活する人は皆持っているものですね)、その必要があると判断したら正直に伝えるようにしています。
でも正直その時間は得意ではない。わたしが自分の病気について説明をしているとき、わたしは「100%患者」になっていると感じます。わたしが友人に対してその説明をしているとしたら、普段のわたし・友人という関係ではなく、そこには「うつを持っている人・そうでない人」という関係が生まれてしまっているように思えて、それが孤独を感じさせる。
でもわたしが頻繁に自分の体調を含めた近況を知らせる相手がいます。それがわたしの姉です。姉は川崎で医師をしています。専門的な知識があるから、という理由もあるのかもしれませんが、わたしは姉に対しては非常にカジュアルに病気の話をしたり相談をしたりすることができる。「昨日見たYouTubeがおもしろかったよ」という感覚で「昨日はかなり気分が落ち込んでいたよ」と伝えられます。姉もまた、カジュアルにアドバイスを返してくる。おそらく、彼女と病気の話をするときは「50%患者」とかになれているのでしょう。
かといって、普段の生活を「0%患者」で送れるかというとそうではない。なぜなら先にも書いたように「突然体調が悪くなるかもしれない」からです。誰かとご飯を食べに行く予定を立てても、もしかしたらうつの波にやられてしまって起きることがままならないかもしれない。ある程度長期的な仕事も、できるかもしれないしできないかもしれない。そういう心配が常に、自然なものとして日常にあります。
だけど日常に心配がつきまとうというのはなかなかにQOLを下げてくるし、何よりそれはわたしのせいでそうなったわけではない。非常に不本意です。だからわたしは「体調が悪くなるかもしれない」ことは受け入れている、というか受け入れないと生活できないんだけど、自分がうつであることは完全には受け入れられていないし納得もいっていません。何か原因を見つけて折り合いをつけてしまえば楽なのかもしれないけど、それのせいにしながら生きていくのもなんだか気が進まない。
こういう内面のうだうだとした思考を、今までは自分の中で無理矢理飲み下してしまっていたのだけど、文章にすればもしかしたら誰かが一緒に消化してくれるかもしれないし、自分の思考をアウトプットするのはどうもメンタルヘルスに良いのだそうで、うつを飼い始めてから何年も続けてきたこの思考を書くに至りました。
「患者度」というのはその時々で変わったり、必ずしもコントロールできるものではないけど、ある程度自分の精神状態とかうつの波と関係がある気がする。こういう気づきというか、うつ飼いとして得た気づきをもしかしたら他のうつ飼いさんと共有できるかもしれないし、どうせうつ飼いとして生きるならこの時代で良かった点もあるかもしれません。