言われる前にやりすぎなくても良いのでは?
どうも主に姫路にいるhideです。
毎日好き勝手な事書いて、友達の仕事を手伝って、あんまり働かずにチンタラ頑張って生きてます。漫画とゲームと音楽好きです♬ 僕へのアクセスや活動まとめはこちら
(やる気のないレンタル業はじめました)
それでは本編へGO
エスカレートする承認欲と快感
なんでも言われる前にやる!
ってめちゃくちゃ良いじゃないですか。
ただ、いきすぎるのも考えものだなと思っていて(偏る正しさにすぐ反抗するマン)
半ばルーティーン化してるタスクや、おそらくは高確率で予測される事にたいしては言われる前にやる!を目標にして良いと思うんです。
なかにはとてつもなく察知能力や空間把握に長けていて、しかもそれを他者貢献に使える人がいたりします。
当然その能力をフルに発揮する事で物凄く感謝もされるし称賛もされます。
そうなってくると、こうあるべきだ!みたいな方向に周囲の空間が変わっていくってのがあるなーと。
そういう過剰なプラス効果がなければ個人の能力として自由に伸ばして自由に使ってもらってみんながええ感じになるってんで喜ばしいんですけども、、
これ、果たしてみんながそうやってある種の先読みのようなことをやりだして組織が良くなるのかな?と考えるとそうでもないのでは?という疑問が湧きます。
早すぎる先読みって本来は必要でないことなんだけど、そこで評価が決まったりすることでそこを競い出したりしないかなと。
それはさすがにちょっとおかしくない?
先読み競争、察する競争みたいな、、
逆に「察してよ!」文化って時に嫌われるじゃないですか。
言葉にして態度に出して相手に伝えようよ!っていう。
察しすぎる人が先回りしすぎる事で、察する文化もまた強くなりますよね。
日本って国民性とあるかもだけど、こうした察する力を使いすぎたんじゃないかって思うんです。
気付いたことを何でもやる!は、それが特性の人まで咎めることはないにしても、それを見本にしたりしない方が良いよねーっていう僕の感想でした。
僕なんかは全く気づかない事もないけれど、少しでもどうしようか考えた時点でそういう先回りはしないようにしてたりします。
いや、全然そんなたいした気付きがあるわけではないんですが(笑)
気持ち良いんすよ。褒められると。
その快感に溺れないようにしたい。
(まったくもって参考にしなくて結構ですw)
"やらない"ということの解像度
やっても良いし、やらんでも良くない?
っていうフッワフワで曖昧でいい加減な環境を大事にしたいんですよね。
これ、僕のこういう発信で勘違いしてほしくないのは"やらない"が良いよね!ではないということ。
能力格差はあってもいいけど、存在価値格差みたいなものを失くしたいんです。
能力のない人は価値がないよね。
みたいになってほしくない。
能力のある人が輝けるのは能力のない人がいるからだったりするので能力のない人も実は必要なんです。
なんですが、、「能力のない人」って
人としても下みたいな感じがしますやん。
そういう空気を払拭したい。
どうしたって能力格差が免れないなら、格差で病まないようにしたら良いなーと。
ほんでもって僕もその方が楽なんで←
もっと小難しくてめんどくさいことを言うと、やりすぎると価値も下がるし、さらにそれが当たり前になってたりする日には疲弊してしまうってのがあるので、やらないのか、やれないのか、どちらにしろそれはそれで価値がある。
能力あるものの独裁でも良いのでは?
これは仮説というか一つの暴論として、いっそのこと能力があるものを明らかに上としてしまって緩やかに独裁してもらうというのも僕はあながちナシではないと思ってたりします。
むしろおそらく動物としてはこっちの方が簡単で合理的なのかも。
能力のあるものに牽引してもらう。
能力のあるものはないものを守りますよ。
なので賞賛してください。
だから価値にも差異がありますよ。
人の命を能力により分別する。
そんなの非人道的だ!!というのもわかる話です。そう思います。
では果たして人の道とは何だ?
人の道により人の世はどう豊かになる?
所詮は弱者の戯言でしかないのではないか?
僕はそれは違う!!と元気良く反論する事もできません。
考えすぎると頭がこんがらがって無駄な時間を過ごす事になるので、いつものことですがテキトーに読み流しちゃってくださいね(^^)
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