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おうち英語やったのに、結局は平凡だったわが子をぎゅっと抱きしめて

おうち英語をやって10年以上経って、うすうす気づいてはいたけれど、

「うちの子って、おうち英語やっても、結局平凡だったなぁ…」

とつくづく思う。

平凡さから抜け出したくて、よその子より頭ひとつ何か抜けださせたくて、フツーの家庭でもできることで…って取り組んできたおうち英語。

ある程度はできるようになった。
それには満足してる。

でも、「それで何…?」というのが今の正直な感想

だって、ある程度の「おうち英語」の取り組みを長期間やれば、どのママでも、どの子にでも、再現可能なことを、ただ愚直にやっただけのこと。それで「当然結果が出ること」として、ある程度できるようになっただけの話

そこに特別さがあるかというと、否

別に大谷翔平になったわけでも、藤井聡太になったわけでもない。70億人に一人レベルのことじゃない。1000人に一人レベルですらない。
100人いて、ほぼ99人くらいに再現可能なことをやって、それが実現しただけの話

おうち英語界のレジェンドといえば、「帰国子女と遜色なくネイティブ相当に、ペラペラしゃべれて書けて読めて聞けて、小6で英検一級で、旧帝大もアイビーリーグもダブル合格」みたいなのが有名だけど、それとはほど遠い。

ちなみに、レジェンドにならなかった(なれなかった)のは、別にママのやり方がまずかったからじゃない。

もっとお金や手間をかけてやればよかった?
レジェンドみたいに小学校6年間毎日休まずオンライン受けさせなかったから?サボったから?
やる気出させるために、もっと教材研究して、食いつきがよさそうな本とかゲームとか動画を与える努力をママが怠ったから

ママの熱意と愛情がイマイチ足りなかったから?
魔法の教材を見つけきれなかったから?
ぴったりの環境を用意してやれなかったから?

いや、そうじゃない。
そんなのは、はっきり言って「子どもの持って生まれた性質・気質」と、「ママの性質・気質」と、「家庭環境」のかけ合わせで、数百万分の一で生まれる偶然の違い

「偶然の奇跡」を持てなかったことを、どんなに悔やんでも、残念に思っても、しょうがない。

たとえば、「左利きで、村上春樹が好きで、フォトメモリーがあって、昆虫に詳しくて、算数に一切興味がなくて、食パンは必ず耳から先に食べる派」の子に生まれなかったのを、悔やんで自問自答するようなことに似てる。

まあ、そんなこと望んだってしょうがないってこと。ちなみに、今例に出したような子に育てるにはどうやったらベストなのかは、私もわかんない(笑)

まあ、それくらいバカらしいってこと。そんなこと考えること自体が。

特別さは、その「存在」の中にしかないのかもしれない

他人の目を通した「特別さ」じゃなくて、「自分たちがこの現生で親子であって、今この地球上に存在している」ということ自体がもつ唯一無二さ


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