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考えとく(小説)

 ホテルのスイートを借り切って開催したクリスマスパーティー。異業種交流なんて建前で、実は淋しい男女の集団見合い以外の何ものでもない。企画したのは会社の先輩。私はスタッフとして参加していた。

「盛り上がってる。よかった」

 ほくそ笑みながら化粧直しをするために洗面所のドアを開けたその時、後ろから大男が現れて私の背中をバーンと押した。振り向くと取引先の森さんだ。

「あ、お入りになりますか?お先にどうぞ」

 そう言って廊下に出ようとすると、今度は正面から私の両肩をグイッとつかんで壁に押しつけ、かがんで唇を這わせてきた。

「ちょ、ちょっとやめて下さい」

 両手で彼の肋骨を押したがビクともしない。仕方ないので右手で彼の左頬をひっぱたいた。すると「それがどうした」と言わんばかりに顔を寄せてきて、アルコール臭い息を私に吹きかけた。

 怖い。今ここでひるんだら大変なことになる。叫ばなければと思ったが、塞がれてなかなか声が出ない。仕方がないので両手で後ろの壁をバンバン叩いた。誰か来て。助けて。

「どうしました?」

 その時ドアを開けて入ってきたのが、この日会ったばかりの氏木君だった。助かった。私は一瞬動きを止めた森さんの脇の下をくぐって氏木君の方に走り寄った。涙でコンタクトがずれ、視界がぼやけている。

 人が集まってきた。泥酔している上に狼狽した森さんはその場にヘタヘタとしゃがみこんで頭を抱えた。そこに遅ればせながら駆けつけた先輩は、大人の対応で上手にその場を繕った。

「あれ?森さん、これくらいの酒で潰れちゃったんですか?弱いなぁ。さぁさぁ、あちらでちょっと休んで下さいね」

と言いながら森さんを抱えてベッドルームに連れて行った。その際、先輩がすれ違いざまに私のことをキッと睨んだ気がした。「大事な取引先にケチってるんじゃないよ」とでも言いたかったのだろうか。

 私はすっかり意気消沈してしまい、荷物をまとめて帰り支度を始めた。すると氏木君もコートを取って、

「駅まで送りましょう」

と言った。男性に対して怖い思いをしたばかりなのに、氏木君からはあまり男性の匂いが漂ってこなかったので、私はありがたくその好意に甘えることにした。

 この一件がきっかけで、氏木君と私は連絡を取り合うようになった。

★★★ 

 氏木君は読書家だった。好きな作家は三島由紀夫。普段は無口のくせに三島のことになると途端に饒舌になった。たとえば、三島は強く見せるために筋トレをしていたということ、さらに、より逞しく見せるために写真は下から撮影させていたこと、ノーベル賞は川端ではなくて三島が取るべきだったということ、『春の雪』ではキスのために数頁も割いていてその繊細さがたまらないのだということ等々、氏木君は色白な頬が紅潮するくらいに熱く三島を語った。

 それから氏木君は映画も好きだった。一番のお気に入りはジュゼッペ・トルナトーレの『ニュー・シネマ・パラダイス』で、もう何回見たかわからないと言った。更にその見方についてもこだわりがあるようで、カタルシス効果がマックスになるよう、エンドロールのキスシーンは意識が遠くなるほど繰り返し再生するのだという。では、氏木君は美しい作品しか見ないのかといえばそんなことはなくて、スタンリー・キューブリックの『時計仕掛けのオレンジ』やジョン・ウォーターズの『ピンク・フラミンゴ』のような作品を勧めてくることもあり、そんな時は感想に窮している私を見てゲラゲラと楽しそうに笑った。

 そんな風にして私達は自然と距離を縮め、次の年のクリスマス・イブには二人で教会に行くくらい仲良くなっていた。イブに教会と言っても、最初からロマンチックな待ち合わせだったわけではない。教会に行ったことがない氏木君をクリスチャンである私が案内してあげるというような感じだった。

 帰りに寄ったレストランでは、好奇心あふれる氏木君からキリスト教について質問責めにあった。「アーメンってどういう意味?」「どうして馬小屋で生まれる必要があったの?」「博士の贈り物の没薬って何?」

 私は、自分が大切にしているものに興味を持ってくれたことが嬉しくて、それらの一つ一つに丁寧に答えた。氏木君は私の口元に瞳を近づけて真剣に聞いていた。そんな二人の顔をゆらゆら照らす蝋燭の灯りが悪戯な魔法をかけたのだろう。その日の二人は午前0時を過ぎてもなかなか「じゃあね」が言い出せなくて、気付いたら氏木君が私の部屋にいた。

★★★

 シャワーを浴びてベッドに入った。氏木君は180センチを超える長身だけれど横幅がないので、二人で一緒にベッドに入ってもどちらかが落ちる心配はなさそうだ。しかも、色白で卵を剝いたような肌だから、すぐ横にいてもちっとも暑苦しくない。

 そんなことをつらつらと思っていると、天井を見つめていた氏木君が口を開いた。

「こういう時って、キスとかするのかな」

 思わずプッと吹いてしまった。氏木君は二つ年下だから、こんな幼稚なことを聞くのだろう。

「してみてもいいんじゃないかしらね」

 答え終わるか終わらないかのうちに、彼の唇が重なってきた。いや、重なってきたというよりはぶつかってきたという方が的確な表現かもしれない。彼の唇はとても硬かった。

 続けて、大きな掌がパジャマの上から私の左胸を包んだ。揉むのではなくてそっと置くような感じだった。心臓がドクンドクンと高鳴り、自然と次の展開に期待が膨らんだ。しかしその時、突然ある直感が頭をよぎった。今、氏木君は「抱きたい」より「抱きしめられたい」と思っているのではないだろうか。

 私は腕を回して氏木君をそっとハグしてみた。そして彼の背中を優しくさすってみた。私の腕の中で彼の体が柔らかく解けるのを感じた。直感はあたっていた。

「今年はいいクリスマスね。去年のドタバタとは大違い。でも、一週間目一杯仕事をした後に教会へ行って、それから飲んで食べておしゃべりして、ちょっと疲れちゃったよね。今日はゆっくり休もう」

 そう言うと、氏木君がほっとしたように頷くのがわかった。とがった顎が私の頭にコツンとあたる。私は手を伸ばして天井から垂れている紐を引っ張り、オレンジ色の豆電球を消した。

「おやすみ」

「おやすみ」

★★★

 その夜以降、週末はいつも一緒に過ごすようになった。土曜の午後に横浜で待ち合わせ、散歩をして映画を見て中華街で食事をし、それから保土ヶ谷にある私の部屋でワインを空けて寝る、というのがお決まりのパターン。

 氏木君は私の部屋をオモチャ箱と勘違いしている節があって、あれこれ手にとっては「これ何?」を連発し、説明してあげると「ふーん」と言いながら面白そうにそれで遊んだ。

 化粧台周辺で一番のお気に入りはホットビューラー。時々自分の睫毛にあてては目をパチパチさせ、「森高千里に似てる」と自画自賛してご満悦だった。

 キッチンで一番のお気に入りはフードプロセッサー。スイッチを押すとガーっと野菜が粉砕されるのが楽しいらしく、冷蔵庫の中の余りものを片っ端からミンチにしてくれた。おかげで、週末の内に翌週の餃子やスープを作り置きしておくことができて非常に助かった。

 リビングで一番のお気に入りはキーボード。私はとうの昔に音楽をやめていたからインテリアとして飾っているだけだったのに、氏木君は「弾いてみて」とせがんできた。私は気が進まなかったけれど、とりあえず二人で見た『ピアノ・レッスン』という映画のテーマを弾いてみた。切なく苦しく激しい映像を瞼の裏に映しながら。

 弾き終わると、なんと氏木君の瞳が潤んでいるではないか。そしてポロリと大粒の涙をこぼし、「ピアノを教えて」と頼んできた。「君はベインズかい?」と笑いながらエイダになってあげることにして、この時から二人のピアノ・レッスンが始まった。

 氏木君は全くピアノを弾いたことがないくせにピアニストには造詣が深く、既に自分の好みの音もわかっているようだった。

「僕はアルゲリッチよりグレン・グールド派。正確なリズムとタッチがいい。しかも彼、若い頃の写真を見るといかにも神経質そうなイケメンでもろタイプ。まぁ、それはともかく、僕もこういうのを弾けるようになりたいんだ」

 そう言って、グレン・グールドのCDを私に渡し、モーツァルトのピアノソナタ第11番を指さした。これは後半で所謂トルコ行進曲が登場する有名なソナタだが、冒頭のメロディーは極めてシンプルで穏やかだ。

「最初の部分だけなら氏木君でも弾けそうね。とりあえず右手だけ練習してみれば?私が左手を弾いてあげるから」

 こんな感じで私達は長椅子に並んで腰かけ、息を合わせて鍵盤を押すようになった。時折指と指が触れる。右肩や右腿からぬくもりが伝わる。叩いた音と音が重なり合う。私達が一つになる方法はこれで充分だと思った。

 そう、年が明けて共有する時間が増えた後も、私達の体はまだ完全には繋がっていなかったのだ。

★★★

 バレンタインデーを二日後に控えた土曜の夜、いつも通りキスをしてひとしきりペタペタと触りあった後、両手を頭の下で組んだ氏木君が天井の木目を睨みながら呟いた。

「そろそろ怒ってるんじゃない?」

「ん?何を?」

「ここから先に進まないこと」

「ああ。怒ってないけどね、どうしてかなって不思議には思ってるよ。フフ」

 氏木君は、フーッと溜息をつくと上半身を起こし

「聞きたい?」

と、あらたまった口調で切り出した。私も枕を背もたれにして座り

「うん。聞きたい」

と言った。電気はつけずに月明かりだけにしておいた。

「実はね、僕は、男性が好きなんだ」

 ダンセイ・ガ・スキ?

「つまりね、僕は女性を抱きしめるより、男性に抱きしめられたいって思うタイプなんだ」

 氏木君の言葉にピンポン・ディレイがかかって語尾の「なんだ」が無数に部屋中に散らばった。

 ナンダ・ナンダ・ナンダ・ナンダ…

「大丈夫?」

 ぼーっとしている私を心配して氏木君がのぞき込む。私は我に返って言った。

「そう、ナンダ…」

★★★

 言われてみれば思い当たる節は沢山あった。たとえば、『きらきらひかる』という映画を借りてきて一緒に見た後、バイセクシャル役を演じた豊川悦二を絶賛していたっけ。『蘇える金狼』という映画を借りた後は、ベッドシーンの松田優作に悶絶していた。どちらも、女性である私の興奮レベルと同等、いや、それ以上に思えたからアレ?っと思ったのよね。でも、それもこれもきっと私達の趣味がぴったり合っているからだと思って喜んでいたのに。

「だったら男性の恋人を作ればよかったのよ」

「うん、もういるよ」

 エ?

「君の会社の取引先の森さん」

 エエエ?

「でもあの人、土日は家族サービスで忙しいから」

 ダカラ・ワタシト・スゴスンカイ?

「ちょっと待って、いつから?」

「君と会うずっと前から。だってほら、一昨年のクリスマスパーティー、あれだって僕は森さんに誘われて行ったんだよ。あの時、あの人いつもの強引さで君に失礼なことをしただろ。なんだか申し訳なくってさ」

「それで駅まで送ってくれたってわけ?」

「ああ」

 オマエハ・スケベナモリノ・オクサンカイ

「なんで今更そんなカミング・アウトするのよ」

 私はもう情けなくて泣きそうだった。

「君を本当に好きになったからだと思う」

 へ?ワケワカンナイ

「全部知った上で、僕の友達でいてほしいんだ」

 ハー?

「これからもピアノを教えてほしいし、料理も教えてほしい。土日は遊んでほしいし、ホットビューラーも貸してほしい」

 …………

「聞いてる?」

「考えとく」

★★★

 考えて考えて20年が過ぎた。氏木君は今も私のマブダチだ。


(了)