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◆第六回~最終回◆山本信「夢とうつつ」読書会後記(終)

 間が空いてしまったが「夢とうつつ」読書会は今回で終了した。要約は太字、それ以外は筆者のコメントである。



 ある特定の場所・時間において、これをした、これがあったと知覚することが再認や想起である。それは現在知覚されていることを時間的・空間的な連関において位置づける操作を前提している。その際、個々の連関が精確に辿られる必要はないが、当の過去と現在とが一つの共通の時間的・空間的な連関のなかに配置されること、これが問題である。まさにこの操作が夢においては欠如しているものなのである。

夢では、見られている当の場面に対し、一定の外的関係において位置づけられるべき他のものは存在しない。

山本信「夢とうつつ」

サルトルの言い方を借りれば、夢における時間的・空間的な連関への規定・関係は一つ一つの場面のとっての「雰囲気のようなもの」である。個々の事物がそのなかで位置づけられるような外的連関ではなく「内的性質として」すでに備わっているのである。
(三十四段落)

 そのことは過去についてのみならず未来に関しても言える。さきほど私は夢の中においては常に現在にいると述べたが、これは正確ではない。現在が意味のある語として措定されるには、未来・過去という時制が必要であり、現在しかないところには、現在すらない。
(三十五段落)

 しかるに、夢の中では一般的命題や普遍概念といったものが考えられないと言っていいのではないか。夢のなかでは一切がそれぞれ全き個別性として現れており、夢では、現前している場面が全てなのである。ゆえに、とある個別的なものを他との関係から同一の類のもとで理解したり、事象に法則性を見出し、一般的命題を抽象することもできない。
(三十六段落)


※ここから第五節に入り、山本信のこれまでの主張の反例となるような夢の報告(山本曰く反証にはなっておらず、むしろ山本の主張を裏付けている)に山本がコメントしていく流れになるが、この記事では省略して第六節(混乱を避けるため、便宜上、第一段落とする)から始めることにする。


 
 結論。夢と現実の知覚は、それぞれの意識態度において本質的・根本的に異なる。それは、否定、判断、予想、推理、疑い、問い、検証、試し、記憶、時間的空間的連関の設定、比較、などの働きが、そこに欠如しているかしていないか、による。
(第一段落)

 多くの人は二つのことを混同した。現実で働く知覚が夢の中では遂行されず、現前するものに縛られてしまうということと、他方、想像は自分の力で自由に変えられるのに、現実の知覚は好きに変えられないということを、である。

そして、夢とは、自分の産みだした心像に対し、それを現実的なものと見なすことにおいて成り立つ、というように考えた。真実にはその逆である。夢では、知覚におけるような意識のはたらきが欠如し、現実性の意識が失われているが故に、我々は心像に捉えられ翻弄されるのである。

山本信「夢とうつつ」

(第二段落)


――余談だが、ここで読書会の参加者から、この第二段落での山本信の結論は永井均の『子供のための哲学対話』所収「うまく眠るこつ」(p77)での「ペネトレ」の言葉と対照的であるとの指摘があった。その指摘に相当すると考えられる箇所を、ここに引用しておく。

ペネトレ:眠るってことは、起きている世界とは別の世界に入ることだから、眠るためには、まず、起きているときの世界のことはすべてわすれてしまわなけりゃだめなんだけど、ただわすれるのは、ただ待つのよりも、もっとむずかしいんだ。だから、逆に、眠ってから入る世界のほうを、あらかじめ自分で勝手に作っちゃうほうが、かんたんなんだよ。むかしのことを思い出してもいいよ。要するに、眠ってから見るはずの夢の世界を、自分で勝手に作っちゃって、その世界の中で生きている気になっちゃうのさ。それが完璧に成功して、ふとんの中にいることをわすれてしまったとき、きみはもう眠っているんだ。

永井均『こどものための哲学対話』p79

 眠った後に見るはずの夢の世界を先取りし(あるいは過去の場面を思い出し)、あたかもそれこそが今この世界であるかのように生きているつもりになる(つもりになったことも完全に忘れる)ことで「眠りにつく」ということは、先に見た山本の結論からすれば「夢」の誤用かもしれない。ここに「弁証法」の運動を見ることを筆者は提案しようとしたが、筆者の説得力が乏しく上手くいかなかった。



 しかし、次のような反駁がありうる。以上の議論を認めたうえで、夢と覚醒との区別がはっきりと付けられたとしても、ある日、突然、まったく別の世界で目覚めることがありうる、という仮定は依然として可能である、と。これは可能な仮定のつもりでも、無意味な仮定であると、これまでの議論で示すことが私の目的でもあった。我々が現在知覚している「この状態」がいつしか夢を見ていたことになるような、そのような状態に至ることがありうるというのは、言葉の上では意味があるように見えても、我々の意識にとっては内容のない、理解しえない言葉なのである。劇場から出てきて芝居の余韻に浸ることはできても、道を歩いている自分が芝居の中にいるとは誰も思わない(ただし、右の反論のようなものが宗教的な意味合いで言われているのであれば、話は別である)。
(第三段落)

(※最後に山本は、いくつかの(彼が哲学的とする)問題について箇条書きにしており、論文の問題の根底に関わっているとは思うが、あえて省略する。しかしながら「六」と番号を振られた記述――ヒュームの言う「印象」と「観念」の類似性テーゼを「想像を見ているとき」の意識の停止において否定する箇所――に関しては、個人的に興味深いと思った。)




 以上で、読書会は終了。2024年の4月下旬(か、おそらく5月のあたま)から始めて、休止期間もあり、人数も減ったものの、なんとか読み終わった。(2024/09/08)