エフェメラ【短編小説】
『あいうえお』『こんにちは』『すらすら』
ボールペンの試し書きのために用意された小さなメモ帳には、線や図形、何気ない文字などが書き込まれている。余白がまだある用紙はそのまま残し、もう何も書くスペースがなくなった用紙は剥がして処分する。個人名や誹謗中傷が書き込まれた用紙は有無を言わず破棄。とはいえ、ここは中型書店の一角にある小さな文具コーナーだ。悪意のある書き込みはないだろうし、あったとしてもすぐに破って捨ててしまえばいいだけ。一通りチェックして、業務に戻ろう。
三個置いてあるメモ帳を一つずつめくって確認する。最後の三つ目のメモ帳のおしりから三枚目くらいで、それを見つけた。
『今日の仕事しんどかった。おっさんキレ過ぎだろ』
誰かの愚痴だった。丸っこくて特徴的な文字。メモをめくると、その下にも書き込みがあった。
『最近仕事多過ぎでしょ。朝は早すぎるし、夜も遅い』
『頑張ってるのに、あまり給料貰えてない』
鬱憤が溜まっているようだ。数年前の私みたいだ。あまり思い出したくないけど。不満は誰もが抱くもの。こういう愚痴ってプライベートなものだから、あまり人に見られてはいけないな。私はその愚痴の書かれたページを剥がした。でも捨てる気になれなくて、折りたたんで制服のエプロンのポケットに入れた。
その日以降、試し書き用のメモ帳をいつも以上に確認するようになった。同一人物のものと思われる書き込みを見つけたら、そのメモを剥がしてポケットに入れる。筆圧が強いのか、裏写りした用紙があった時も一緒に破る。こんなことを続けるうちに、書き手の人物像が見えてきた。おそらく、芸能関係の仕事をしている若い女性だ。
『カメラマンからのポーズの注文が気持ち悪かった。セクハラだよ』
『楽屋を離れて戻ってきたら、カバンの中のナプキン入れポーチが消えてた。盗まれたのかな。気味悪い』
気の毒ではあるが、面識の全くない人に対して私ができることは何もない。毎回そんなことを思いながら、書き込まれたメモ用紙を剥がし、ポケットにしまう。
彼女の書き込みは続き、段々と愚痴の範疇を超えていった。
『私が昔に書いた作文や宿題がネットオークションに出品されてるらしい。誰がやったの、怖い』
『この前のインタビューが雑誌に載った。ほとんど別物に編集されてた。悲しい。あの文面通りの人間像が求められているんだね』
何も感じないわけではない。しかし、何もできない。できるのは、メモを剥がすことだけ。顔も知らない彼女を想像する。こんな規模の小さい書店の端っこの文具コーナーで、声を殺して本音を吐く。追い詰められていると分かっても、私は何もできない。いつものようにメモを剥がす。これが彼女の最後の書き込みとなった。
担当しているビジネス書の本棚に新刊を陳列していた。久しぶりの早番のせいか、眠気でぼーっとしてしまい、開店時間を過ぎても作業が終わらなかった。ようやく全ての新刊を並べ終えたと同時に、叫び声が聞こえた。私を含めた二、三人の店員が声のする方へ駆け寄ると、若い女性がその場に崩れ落ちて号泣していた。その手には今日発売されたばかりの週刊誌が握り締められていた。「大丈夫ですか?」と他の店員が介抱し、落ち着かせるためにバックヤードへ連れて行った。
あの週刊誌の表紙には、若手女優・立花莉杏の写真が載っていた。彼女は子役としてデビューし、幼いながら一躍有名になった。彼女はさらに実力を伸ばし、十八歳にして数多くのドラマや映画の出演歴がある。最近放送されたばかりのドラマにも出演している。全国大会を目指す運動部に属する高校生を描いた青春もので、注目度の高い若手俳優が出演する中、立花莉杏はその主人公を演じている。
立花莉杏が事故に遭い、意識不明の重体だと報道されたのは二日前だった。スマホゲームのプレイ中に目に入ったニュースアプリの通知を通して知った。あまりニュースは見ないため軽くスルーしていたが、各メディアで大きく報道されているのだろう。週刊誌がその証だ。
休憩室に入ると、泣いていた彼女は背中を丸めて座っていた。隣には店長が別の椅子に腰掛けて様子を見つめている。彼女は私を見つけるとペコリと頭を下げ、店長の方を向いた。
「取り乱してしまってすみませんでした。もう落ち着いたので帰ります」
「そうですか…無理しないでくださいね」
「ご迷惑をおかけしました」
彼女は店長に深々と頭を下げたあと、先ほどの週刊誌を手に取り、店長に言った。
「あの、この雑誌買います。ボロボロになってしまったので。午後に予備校の授業があるので、これで失礼します」
再度一礼し、休憩室を出て行った。その様子を心配そうに見つめる店長に声をかけた。
「店長、すみません。彼女を送ってもいいですか?」
私は彼女を予備校の近くまで送ることにした。書店から結構離れてるからと彼女は断ろうとしたが、みんなが心配してたと言うと、渋々受け入れた。
二人で並んで歩く。彼女を刺激しないよう、あえて自分から話しかけなかった。
「立花莉杏は昔の友達なんです」
彼女は静かに言った。
「実は私、十年くらい前まで芸能界にいたんです。『清水舞花』っていう子役知ってます?」
「もしかして、チョコのCMの?」
彼女、清水舞花は頷いた。ベビーモデルとしてデビューした彼女は、話題になったドラマや映画にも出演していた。立花莉杏とは十二年前にチョコレート菓子のCMでの共演がきっかけで仲良くなったそうだ。その二年後に連続ドラマで再共演を果たすものの、クランクアップ直後に舞花は家族の意向で芸能界を引退した。仲良しだった莉杏にも会えなくなった。
「だから、莉杏さんのニュースにひどくショックを受けたんだ」
舞花はまた泣きそうになった。彼女は絞り出すように言った。
「あの事故を一昨日知って、呆然としてしまいました。引退してからも、莉杏のこと応援していたので。キラキラした莉杏を見るのが好きだったんです。あの書店で、莉杏の記事をよく立ち読みしてました。あ、そちらの書店には昔からお世話になっていて、ドラマ撮影の休憩中によく莉杏と児童書コーナーに行ってました」
だとしたら、今日うちの店で週刊誌を目にしたのも自然なことだ。
「週刊誌の表紙を見て、思わず目を疑いました。『立花莉杏の事故は自殺未遂』って。怖かったけど、その記事のページを開きました。莉杏に対する批判ばかり連なっていました。『ドラマの撮影現場で嫌がらせしたいた』とか『スタッフに横柄だった』とか。莉杏が共演者の悪口を書いていたという台本の写真も載ってたんです」
舞花は息を吸い込んだ。
「何が嘘か本当か分かりません。でも、台本に書かれた文字は莉杏のものじゃありません。共演した時や雑誌を立ち読みした時、莉杏の書いた文字を見てきました。あれは莉杏の文字に寄せて書いた偽物です。嘘の台本の写真を載せて、莉杏を悪者に仕立てるなんて…」
私みたいな一般人には芸能界の人間模様なんか全然分からない。真偽はなんとも言えないが、目立つ人の足を引っ張りたくなるのは業界関係なく人間が抱いてしまう感情かもしれない。
「あと…内容はあまり覚えてないんですけど、使われていた他の写真が気になるものがあったんです。莉杏が描いたという木の絵のキャプションに『バウムテスト』と書かれてました。知らない言葉だったので、スマホで調べて初めて意味を知りました。そして、この絵はそういう目的で描かれたものではないと確信しました」
「それはどうして?」
「私たちが共演したドラマで、莉杏は暗い少女の役だったんです。その中で、莉杏が木の絵を描くシーンがありました。授業で校庭の木や植物を描く場面だったと思います。撮影はしたんですけど、制作チームの話し合いの結果、カットされました。莉杏は用済みになった紙の空いたスペースに、別シーンで使うセリフを書いて覚えようとしてました」
バウムテストは深層心理の検査方法で、心療内科でも行われている。木の絵を患者に描いてもらい、その絵の大きさや描いた位置、葉、幹、根の特徴から描いた当人の性格や心理状況を診断する。
「あの絵と全く同じものが週刊誌に載っていて驚きました。捨てられるもののはずなのに。悩みを抱えた少女の台詞が、当時の莉杏が役として描いた木の絵が、今の莉杏の心理状態と解釈されてしまったかもしれない。負の方向に想像してしまって、耐えられませんでした」
舞花の無念を、私は黙って聞いていた。頭の中で、莉杏が書いた台詞の文字と文房具コーナーで集めたメモ用紙の文字を照らし合わせた。
舞花が落ち着いたことを確認して、彼女に訊ねた。
「舞花さん、デュシャンって知ってる?」
「えっと、美術家でしたっけ。便器の作品の」
「そうそう、詳しいね」
「突然どうしたんですか」
舞花は不思議そうに聞き返した。
「デュシャンの作品に『グリーンボックス』っていうものがあるの。緑の箱に写真とか下書きといった制作メモがたくさん入っていて、その成果物の絵画が発表されたんだけど、制作メモが入った箱自体も作品として発表したんだって。面白いよね。捨てられたかもしれない紙切れが、価値ある現代美術に変わった」
舞花は静かに話を聞いていた。
「美術館に行くと、故人の遺品が展示されていることがある。食器とかアクセサリーとかね。その中に、領収書や住所付きのハガキがあったりするの。日記の中身も見せたりする。いくら価値が見出されても、故人にもプライベートはあるはずなのに。もしかしたら、その人が捨てるつもりだったものかもしれない。その気持ちを私たちは尊重できてるのかなって思うんだ」
先ほどの私のように、舞花は何も言わずに俯いていた。
予備校まであと少しのところに、タバコの自販機と専用の灰皿があった。
「タバコ吸っていいかな?」
「いいですけど…タバコ吸うんですね、なんか意外」
でしょ、と笑いながらタバコを口にくわえ火をつける。煙を吸い、フーっと吐きながら、書店を出る前にエプロンから移したメモをバッグから取り出した。
「これ、燃やしていい?」
「えっ」
「多分莉杏さんが書いたんだ。この言葉はきっと彼女の本心。私は誰かに届いてほしいけど、現状だとそれを悪用する人が出てくるかもしれない。見つかる前に捨ててしまいたいんだ」
メモの束をじっと見つめた後、舞花はゆっくり頷いた。
「いいですよ、お願いします」
「ありがとう」
「あの、私の分も燃やしてくれませんか?」
舞花はリュックから茶色い封筒を取り出した。中には彼女が書店で集めたであろう莉杏のメモが数枚入っていた。
「莉杏、これまで苦しいことたくさん経験してきたと思うけど、女優として人前に立つ時は常に前向きでいたいって前のインタビューで言ってたんです。これは本心だと思います。そんな莉杏をみんなに見てほしいから、これは燃やします」
「…そっか。了解」
穴の空いた灰皿の蓋を開け、メモの束を入れる。舞花にライターを差し出した。
「火、つける?」
舞花は頷いて、ライターを受け取った。あまり慣れていないようで、回転式ヤスリを何度か擦ってようやく着火できた。
重なった紙切れのうちの一枚、その端にオレンジ色に揺れる火を近づける。接触した部分からオレンジ色が伝染し、新たな火が燃え上がる。オレンジはすぐに真っ黒になり、ポロポロと崩れ落ちる。その様子を私たちは黙って見守った。
その日の仕事帰り。午後七時前だが、まだ空が明るい。そういえばもうすぐ夏だとようやく気づく。川沿いを歩いていると、背の高い雑草に黄色く透き通ったものがくっついているのを見つけた。カゲロウだった。他の昆虫よりも寿命が短い、儚い生き物。
カゲロウがコテンッと地面に落ちた。また植物に這いあがろうとする。その姿を見て、血の気が引いたと同時に全身に怒りが込み上げた。筒状に丸めた週刊誌を勢いよく振り下げて、カゲロウを地面に叩きつけた。