書き散らし


物心ついた時、正確には小学校に入ったあたりから、ずっと自分は周りの子供とは違うという意識があった。
人より何かが優れているとか、才能があるとか、そういうものではない。
ただ、自分は周りの同級生たちより圧倒的に変で異常でかけ離れたところにいるという意識がいつも頭の裏に張り付いていた。

たとえば、授業や人の話を聞くことに集中できない。
たとえば、教室にいることが堪えて狭い個室に閉じこもりたくなる。
たとえば、人よりずっと数字に弱い。
たとえば、なにかを優しく説明されることが嫌い。
たとえば、じっと大人しく座っていることが苦手。

それはせいぜい小学校低学年の子供達にもわかるほど明確な狂いで、異常だった。

気づけば、ふざけて遊んでいる時でも、頭のどこかに冷めて何かに疲れた自分がいた。それが頭の中で「お前は何をしているんだ」「また周りに引かれる」「また親に報告される」といった内容を呟くので、楽しいのにどこか頭の中には空っぽな感情がある。この癖は私の成長に応じて形や内容を変えては今なお受け継がれているので、困ったものである。

ただ、私は変ではあれども暗い性格ではなかった。1学年1クラスの狭いコミュニティには同じ保育園で育ち、私をよく知る同級生がいた。
彼らが動じないことによって、別の幼稚園や保育園から来た同級生たちも警戒を解いたらしい。私はなんとか友人を獲得し、ある程度は周囲に馴染むことに成功した。

しかし、変な人という目は変わらない。

「九九は変人だよね」
「変わってる」
「変な人って感じ」
それが、私に対するコメントの大部分だった。

時が経てば経つほど、そのコメントは重みを増していった。

一番弱い出力の電動シェーバーを頬に押しつけられ続けているような、わずかな不快感はますます強くなっていった。

母は私を検査に連れて行った。
結果はわからない。何もなかったから何も言わなかったのだとも思うし、隠しているだけかもしれないという疑念もあった。

祖父母と両親の仲が悪かった。
祖父母その人の人格、私自身がされたことについては省いておく。
酷い時は夕飯後、私や幼い妹、まだよちよち歩きだった弟もいるリビングダイニングで、大声の喧嘩を始め、「お前ら全員出て行け」「言うことを聞かない」などの罵詈雑言を浴びせられた。
両親は引っ越し先を探しているが見つからない旨を私に伝え、祖母は私に母の愚痴を吐き出し、祖父は機嫌が悪いと料理をひっくり返して怒鳴った。


限界だったのだろう。


その時、私が何をしたかについても省いておく。今は話すべきではない、というか、まだ傷が塞がっていない、話せないに近い。
全てを知った母は私に怒鳴り散らし、泣き、言った。
「お前のことは好きじゃない」と。

頭が真っ白になった。
それから、自分が何を考え、何をしたのかは覚えていない。忘れたことにしたいのかもしれない。その後しばらくの記憶がまるごと飛んでいる。

ただ、その出来事の後、私は随分大人しくなったらしい。
曰く笑顔が少なくなった。顔がきつくなった。随分雰囲気が変わった。

この出来事は私と母や家族に大きな傷を植え付けただけではなく、家族に対する不信感をも芽生えさせた。


中学に入ると、いくつかの授業中起きていることが苦痛になった。
いずれも寝ようと思って寝るのではなく、寝落ちに近いものである。握ったままのペンが滑り落ちる感触、上履きのサンダルが落ちる音で目覚めることもあった。
これは、後々まで私を悩ませることになる。

嫌がらせに遭った。
名前を馬鹿にされた。「ゴミ」と呼ばれた。
その度に笑って受け流し、軽く反論したが、その女子生徒はやめてはくれなかった。
そのうち、友人までもが時にそう呼ぶようになった。
私は笑って誤魔化した。

失望だった。
女子生徒友人への、そして何も言えない自分への失望だった。

友人が2人、不登校になった。
友人が1人、虐めに遭った。
友人が1人、抑うつ状態になった。
友人が1人、腕を切った。


皆、苦しんでいた。



私は何もできなかった。

希死念慮を覚え始めたのはこの頃からである。



高校に入ると、居眠り癖はますます酷くなった。6から7時間は寝ているにも関わらず眠気は止まらない。日によっては、午前中の授業はずっと寝ていることすらあった。

高校の同級生は、授業中常に舟を漕いでいる私が奇異に思えたらしかった。私が居眠りから顔を上げるとくすくす笑いが起こっていることは、寝ぼけ頭でもなんとなく察していた。今思えばただの被害妄想であると誤魔化して、平常を装っていた。

ある日、友人が私に手紙を寄越した。

内容はこのようなものである。

「お前が居眠りしているところを見てクラスの連中が笑っている。九九のためにも、病院に行ったほうがいい」​


恐れていたことが、現実になった。

いや、最初から現実であったのだ。私が、それを認める強さと、変な人のまま生き続ける度胸を持ち合わせていなかっただけで。


人が恐ろしくて仕方なくなった。

誰かを信用することができなくなった。

人の声や態度に敏感になった。

クラスにいることが苦痛になった。


行き渋りを始め、親に「それならお弁当いらなかったじゃない、もっと早く言えよ」などと数度叱られ脅された後、私は心療内科の門をくぐった。

医者と話し、漢方薬をもらった。一度めの薬がなくなるころ、父は私に言った。

「薬飲み切ったんだしもういいでしょ、なあ九九」

私はそのころ両親との反りの合わなさを実感し、その言葉に反抗する気力すら失っていた。

やがて友人は普通科高校と合わず転校していった。友人に誘われて入った美術部では顧問と衝突した。下校時刻ぎりぎりまで顧問に詰められながら絵を描く生活を定期試験一週間前まで続け、夜は疲労と精神不調でテスト勉強は捗らない。尚且つ、居眠り癖も治っていないままでは勉強はできるはずもない。案の定、苦手教科は全滅だった。

握りしめてぐしゃぐしゃのテスト用紙を鞄に詰めて、私は帰路についた。

私はだめだ、あんなに頑張ったつもりだったのに、いや寝ていたのはお前じゃないか、ならばすべてお前のせいだ、どこにも行けない、勉強も運動も特技すらもだめにしてしまった、結局絵も進んでいない、私は、

ふと、橋の欄干の下に大きな川が見えた。その川は、数年前に女子高生が飛び込んだと知っていた。

自転車から身を乗り出し、川を眺める。私はその川がカヌーで渡れるほど深く、夏でも橋げたの下は涼しく冷たいことを知っていた。

太宰治のファンだったある当時のフォロワーさんが、「いつか全て投げ出したくなったら青森に行ってそこで死ぬ」と言っていた影響もあったと思う。


ああ、ぜんぶだめになったら、ここで死のう


その時、なんともなしにそう決めた。


季節が巡って、私は高校三年間ほぼずっと続いた一人ぼっちによって、それをつらく感じることがなくなった代わりに誰かと長い間一緒にいることが苦痛になる体質を獲得し、のうのうと生きたまま高校を卒業した。

心のよりどころにも近かった川から遠く離れて、進学と同時に、半ば祖父や両親から逃げるように京都へと移住した。



なにがどうなってこうなったのかは、よくわからない。わかりたくないのかもしれない。ただ、生きていること、自分が存在していることのすべてが苦痛で仕方なくなった

手っ取り早くこの辛さ、焦燥感を消すために、部屋のベランダから地上を眺めた。ヘアバンドとドアノブを交互に見つめた。薬を飲むことを考えてやめた。前腕に無為なひっかき傷を増やした。

だが、今のところ私はまだ生きている

わかりたくないことが多すぎた。


最後に、これは単なるメモで整理で、くだらない私のくだらない半生の書き散らしである。

読まれたところで両者なんの得もないし、人によっては読まないほうが良いまである。基本的には有害である。

これを書いたことによって、少しでも私の整理になれば、いつかの未来の私の救いになればという願いが少しだけ、こもってもいる。


2022.09.01



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