多様性を「認める」ことと「受け入れる」ことの違い
僕がよく読ませていただいている、安達さんという方の記事で、本日こんな内容のものがアップされていました。
さすが安達さんの書かれた文章だけあって、概ね同意です。
しかし僕は、「多様性を認める」について、もうひとつ、大切なステップがあると思っています。
「認める」ということと、「受け入れる」ということは、似て非なるものであり、ごっちゃにしてしまってはいけないのではないか、ということです。
安達さんの書かれていることを端的に表現すれば、「多様性を認める=コスト」という発想は、例えばこんな感じです。
Aさん「この商品は100万円です」
Bさん「高い!!この商品が100万という価値観(多様性)は認められない!」
みたいな。
多様性を認めてしまったら、自分が気に入らない商品に100万円を払わなければいけないことになる。だからコストが高い、と。
これを僕は、こう言い換えたい。
Aさん「この商品は100万円です」
Bさん「高い!!それだけの価値を感じる人もいるでしょうからその値段に文句は言いませんが、私は買いません」
にしていきたいと思うのです。
これは、小さいけどとても大きな違いなんじゃないでしょうか。
安達さんの文章の中で、
例えば、わかりやすいところで言えば
「連続殺人犯であっても、訴追する必要はない、殺人衝動を認めようよ」
という人はごく少数だろう。
なぜなら、彼らを認めるコストのほうが遥かに高いと感じるからだ。
というものがありました。
これに対して、僕は・・・・常々、「人を殺さずにはいられない人間の殺人衝動もそれ自体は認めよう」と言っています。
殺人衝動を持っていること自体は仕方ないよね。
そういう人間なんだよね。
そのこと自体に良いも悪いもないよ、と。
ただ。
それ自体は「認める」けれども、僕は殺されたくないので「受け入れる」ことはできないよ、と。
今の社会では、「殺人衝動を抱く人間はおかしい、間違ってる、罰するべき」と、その相手を根本から否定しているようなところがあります。
これでは、「多様性を認める」ということにはなりません。
だからといって、「じゃあ多様性を認めるっていうなら殺人犯を野放しにしていいのか」というと、そういう極端な話でもないと思うのですよ。
シンプルに、「殺人衝動を持っていること自体、その人の人格は認める」ということをした上で、「しかしこの社会ではそれは容認できない」とすればいい。
結果は同じですって?
いや、全然そんなことないと思うんです。
殺人犯の事例だからピンとこないだけで・・・・さっきの、ビジネスの事例に直したら、全然違うでしょ。
自分が相手に提示した金額に対して、
「高い!安くしろ!」と言われるのと、
「僕にとっては高いので買いません」と言われるのとでは。
前者は、こちらのことを認めてくれていません。
価格付けそのものを間違いだとして、値下げを要求して来ています。
これは、多様性を認めていない。
後者は、価格付けそのものはちゃんと認めてくれています。
その上で、自分には無理だと、購入を断っているのです。
どちらも「購入されない」という結果は同じですが、前者は多様性を認めておらず、後者は認めた上での結果です。
ビジネスの取引上の結果は同じでも、精神的負担や人間関係においては、全然違う結果をもたらしていることは、想像していただけるでしょう。
そういうこと、なんですよね。
僕が「多様性を認めよう」と、エレメンツコードを通して伝えているのは、「受け入れよう」とは、ちょっと意味が違うのです。
最初から認めないのではなく、認めた上で、でも自分はどうしたいのかを選び取っていくことこそが、大切ですよ、と。
なので・・・・
「多様性は認めるべきか」と問われれば、僕は「認めるべき」と答えます。
その上で、「多様性を受容するべきか」と問われれば、「それはコストが掛かるから必ずしもそうする必要はない」と答えます。
そこらへんの違いですかね。
でも、これが重要な違いなんだということを、僕はこれからももっと発信していきたいと思います。
受け入れることはしなくてもいいから、ただ、ちゃんと認め合いましょうよ、と。