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ポンリ論における「修行」とは?— 日常の中で育む自己成長の道

1. 修行は「特別なこと」ではない

「修行」と聞くと、寺にこもる僧侶や、厳しい試練を乗り越える修験者の姿を思い浮かべるかもしれません。しかし、ポンリ論において、修行とは特定の場や方法に限定されたものではなく、日常生活の中でこそ行われるもの です。

  • 仕事の中で直面する課題

  • 人間関係の中で生まれる葛藤

  • 自己の感情や思考との向き合い方

こうしたすべてが、ポンリ論における「修行」となります。

ポンリ論の視点では、修行とは「自己のポンリを成長させるプロセス」そのもの です。人生におけるすべての出来事は、自己のポンリを強化する機会であり、それらを通じて「想天」から「正天」へ、そして「聖天浄土」へと進む道が開かれるのです。


2. ポンリ論における修行の3つのステップ

ポンリ論では、自己成長の過程を3つのステップに分けて考えます。

(1)想惑 — 自己の課題に気づく

ポンリ論において、「想惑」 とは、自分自身の問題や改善点を認識し、それに向き合う思考のプロセスを指します。

たとえば、仕事でミスをして落ち込んだとき、単に「自分はダメだ」と思うのではなく、
「なぜミスをしたのか?」
「自分にはどんな改善の余地があるのか?」
と問いかけることが、想惑の始まりです。

この「気づき」を得ることが、修行の第一歩となります。

(2)レスポンリ — 実践と挑戦

次に、気づいたことを行動に移すステップが「レスポンリ」 です。

例えば、上記のミスを改善するために、新しい習慣を取り入れる、先輩のアドバイスを実践してみる、より慎重に作業するように心がけるなど、自分なりの「答え」を見つけ、それを実行することがレスポンリにあたります。
この時必ずなんらかのポンリキーを糧としてレスポンリは行われています。

(3)ポンリキー — 成長の糧にする

さらに、レスポンリを通じて得た経験や知識は、ポンリ論において「ポンリキー」となります。これは、成長の糧となるエネルギーであり、自己のポンリを強化する要素です。

ポンリキーには、
愛、信、知性、創造、意志、生命、感情、和、悟 の9つのエネルギーがあり、これらを活用することで、自分自身だけでなく、周囲にも良い影響を与えることができます。もしも、ポンリキーになり得ない事象が訪れた場合、その経過をレスポンリミスと言います、その結果自分の精神が病んでしまった場合、それをキョポンリと言います。

「ポンリ論では日常全てが修行と言えます。」

3. 修行の場は「日常のすべて」— 私自身の修行

ポンリ論において、修行とは特別な場所や儀式を必要とするものではありません。むしろ、私たちが生きる「日常」こそが修行の場 です。

例えば、仕事や人間関係の中での経験が、ポンリ論の修行につながります。

「仕事の中での修行」
→ 忍耐、協調性、責任感を学ぶ機会

「人間関係の中での修行」
→ 信頼、共感、誠実さを育む場

「困難や試練の中での修行」
→ 失敗を乗り越え、自己成長するための挑戦

こうした修行の場は、何も特別な人だけのものではなく、私自身の日々の活動の中にも存在しています。

私は 「オルガティオギャラリー」というお店の経営 をしています。
これは単なるビジネスではなく、お客様との縁をつなぎ、信頼を築き、相手の求めるものを形にするという「和」の修行の場でもあります。

オルガティオギャラリー

また、日々寄せられるイラスト制作の依頼に向き合うこと も、単なる技術的な作業ではなく、クライアントの想いをくみ取り、それを表現する「共感」と「創造」の修行です。

さらに、WEBマガジン『菩都歌巣』の運営や、漫画『聖天遍路』の制作 も、私にとって大切な修行のひとつです。
創作を通じて、私は「何を伝えるべきか?」と問い続け、読者の心に届くものを模索しながら物語を紡ぎます。
これは、単なる表現活動ではなく、「想惑」から「レスポンリ」へと進む実践でもあるのです。

このように、日々の仕事や創作活動は、単なる作業ではなく、ポンリ論における「修行」の一環 なのです。
修行とは、遠いどこかにあるのではなく、今この瞬間の「気づき」と「行動」の中にこそある。
それを意識することで、私たちは日々成長し続けることができるのです。


4. 「想天」から「聖天浄土」へ— 修行の最終目的

ポンリ論では、修行を通じて自己の魂(ポンリ)を成長させ、以下のステップを歩んでいきます。

🌱 想天(そうてん) — 自己の問題や葛藤を認識し、向き合う段階
🌿 正天(せいてん) — 内面の整理が進み、執着を手放していく段階
🌺 聖天浄土(せいてんじょうど) — 自己の成長が周囲にも広がり、社会全体を浄化する段階

つまり、修行とは「自分だけの成長」にとどまらず、最終的には周囲や社会全体へと広がっていくものなのです。

5. ソラホシテラスにおける「聖天遍路」という最も重要な修行


ポンリ論において、日常そのものが修行の場であり、自己成長を促すプロセスであることは間違いありません。しかし、その中でも特に重要な修行の形が、「聖天遍路」 です。

聖天遍路とは、単なる巡礼や精神修養の旅ではなく、「想惑・正天・聖天浄土」という魂の成長の道を歩むための修行 です。これは、ソラホシテラスの哲学において中心的な概念であり、ポンリ論の実践そのものとも言えます。

しかし、それだけではありません。

「聖天遍路」を描くこと自体が、私にとって最も重大な修行である

私は『聖天遍路』という漫画を描くことそのものが、私自身にとって最大の修行であると確信しています。

物語を紡ぐことは、単なる創作活動ではなく、自分自身の「想惑」と向き合い、「レスポンリ」を実践し、「ポンリキー」を生み出す行為 です。

✅ キャラクターを通じて、自分の内面を映し出す
✅ ストーリーを描くことで、魂の成長のプロセスを体験する
✅ 読者と向き合うことで、ポンリ論の思想をより深く探求する

こうした一連の創作活動こそが、私自身の修行であり、自己の成長につながっているのです。

なぜ「聖天遍路」を描くことが最も重要な修行なのか?
私は、漫画を描くことを通じて、福太郎が辿る「聖天遍路」という旅を、実際に自分自身も歩んでいるのだと感じています。

福太郎が過去世の因縁と向き合いながら「聖天浄土」へと至る道を探るように、私は『聖天遍路』を描きながら、自分の魂がどこへ向かうべきかを探している のかもしれません。

「聖天遍路」という物語が完成することは、私自身の修行の一つの到達点であり、それを描き続けること自体が、私の魂の成長と深く結びついています。

つまり、聖天遍路という作品を生み出すこと自体が、私にとっての「聖天遍路」であり、最も重大な修行なのです。

このように、『聖天遍路』という作品は単なる創作ではなく、私自身の魂の旅であり、最も重要な修行の形そのものなのです。


結論:修行とは、日常を通じた自己の成長

ポンリ論における修行は、単なる苦行ではなく、日々の気づきと成長の積み重ね です。

✅ 何気ない日常の中で「想惑」を持ち、
✅ それを「レスポンリ」によって実践し、
✅ 経験を「ポンリキー」として蓄えていく

このサイクルを繰り返すことで、私たちは「想天」から「正天」へ、そして「聖天浄土」へと進んでいくのです。

修行とは、何か特別なことをするのではなく、「今この瞬間を、より良いものにする」ための行動そのものなのです。


あとがき

私は筆を取りながら、心の中で一つの旅を歩んでいることに気づきました。

この旅こそつまり「修行」なのです。

『聖天遍路』を執筆することそれ自体が、まさに私自身の聖天遍路であり、この物語は私と読者の共に歩む道なのだと。

西国33箇所の巡礼、八つの浄土に跳ぶための神社(八方院)、そしてその先に広がる八つの浄土を巡る旅。それらはただの物理的な場所ではなく、精神的な道しるべとなり、私自身がその道を一歩一歩進みながら、物語を紡いでいるのです。

私が描く福太郎の旅、彼が辿る修行の道、それはただの登場人物の成長ではありません。福太郎が巡る聖地や神々との対話、そして彼が遭遇する試練は、私自身が心の中で試され、乗り越えたことでもあります。私の筆はその心の道を写し取るもの、そして読者もまた、同じ道を共に歩む仲間なのです。

この旅の目的は、解脱を目指すものではなく、迷いと向き合い、そしてその迷いを超えた先にある光を見出すこと。それは、読者一人一人が自分自身の聖天遍路を歩み、共に成長していく過程でもあります。

執筆を進めるたびに、私は福太郎と同じく、一つ一つの霊的な課題に挑み、成長し続けるのです。そして、あなたもまたこの物語を読むことで、私と同じ道を歩みながら、自らの心の聖地にたどり着くことを目指す。

私たちの旅は、まだ終わっていない。それどころか、毎回一歩ずつ、より深い悟りへと続いているのです。

旅(修行)は続く「聖天遍路第17話より」


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