すべての子どもたちに明日と希望を ~空を見上げて願う、小児がん遺族の思い~【前編】
ラッキーボーイよっちゃんの誕生
2017年10月29日の早朝。照井美穂さんは、次男・善高くん(以下、よっちゃん)の出産に備え、地元の産婦人科病院にいた。
途中までの経過は順調だったが、まだ出産には早い段階で胎児心拍が停止し、急遽吸引分娩で取り上げた。よっちゃんは産声をあげず、呼吸をしていない危険な状態だった。
幸い、日勤と夜勤の医療スタッフが、入れ替わりのために両方いる時間だった。大勢の医師、看護師、助産師が懸命な処置を施し、よっちゃんは一命を取り留めた。
助産師は、「違う時間だったら助からなかった。この子はラッキーボーイね!」と言った。
照井さんは、無事生まれてきてくれたことに安堵しながら、よっちゃんの足首に巻かれたバンドに「ラッキーボーイ」と書いた。
3歳上の長男・幸大(こうだい)くんは、弟の誕生をとても喜んだ。
仲良し兄弟・幸大くん&よっちゃん
その後、よっちゃんは元気いっぱいに育った。物怖じせず、思いつくまま行動するマイペースな性格で、高い所や人混みでも1人でスタスタと行ってしまう。
危なっかしくて何度も肝を冷やしたが、「この子はどこでも生きていける。将来何があっても大丈夫」と、照井さんは頼もしさを感じていた。
一方、兄の幸大くんは、周りの人に気を配り、慎重に行動するタイプ。兄弟でお菓子やおもちゃの取り合いもしない。どんなときも「よっちゃんファースト」の精神で、自分より弟を優先させ、大切にかわいがった。
よっちゃんも幸大くんが大好きで、「だーちゃん」と呼んで慕っていた。
おそろいの服を着て、仲良く手をつないで歩いていた2人の姿は、照井さんの記憶に多く残っている。
そんな仲睦まじい兄弟の日常は、2020年3月31日に一変してしまう。よっちゃんが2歳5ヶ月、幸大くんが5歳のときだった。
明日があるのが当たり前ではない日々へ
その日の午前。公園に遊びに行こうとすると、いつもなら喜んで飛び出していくよっちゃんが、「行きたくない」と言った。元気がなく、最近食欲がないのも気になっていた。眠そうな表情で、前日にふらつきも見られた。
照井さんはよっちゃんを車に乗せ、かかりつけのクリニックを受診した。幸大くんには、「病院に行ってくるね。午後には帰って来るから」と声を掛けた。
診察室で症状を説明すると、医師はふらつきに着目した。
「ちょっと歩いてみて」
よっちゃんは歩きだし、3歩目でふらついた。
総合病院への紹介状が出され、そのまま筑波メディカルセンター病院に向かった。
病院に到着してしばらくすると、よっちゃんの容態は急変し、ぐったりとして起き上がれなくなった。
すぐに入院の手続きが取られ、CT検査を行った。
「脳に影があり、腫瘍らしきものが見えます。このまま筑波大学附属病院に行きます。お母さんが連れて行く間に何かあるといけないので、救急車で向かいます」
筑波大学附属病院は、徒歩でも5分かからない距離にある。どれほど緊急性の高い状況なのか分かった。
筑波大学附属病院では、すぐに夫を呼ぶように言われ、危ない病気の可能性が高いこと、しばらく入院して治療が必要になることが告げられた。
翌日精密検査を行い、同日夜8時ごろ、夫と診断を聞いた。
「びまん性正中グリオーマ(DIPG)だと思います。治療は難しく、余命はだいたい10ヶ月です」
今日1日を笑顔で過ごす
DIPGは、脳の脳幹部に発生する予後不良な腫瘍で、有効な抗がん剤治療がなく、生命維持を司る重要な神経が集まった器官のため、手術もできない。
よっちゃんには、完治を目指せる治療法はなく、延命治療しか選択肢がなかった。
主治医は、入院して陽子線治療を受けることを提案した。腫瘍を小さくし、体の麻痺などの症状を一時的に緩和させる治療で、約7割の子どもに効果が見られているという。
DIPGは3歳未満で発症するケースが少なく、症例が乏しい中、医療者も懸命に考え、できるだけリスクの小さい方法が選ばれた。
この時期、新型コロナウイルスの影響で、面会に厳しい制限があった。親しか面会できず、父親と母親は、どちらか1人ずつしか入室できなかった。
照井さんは仕事を休み、24時間付き添い入院生活を始めた。
「この子に明日があるかわからない。だから、今日1日笑顔で過ごそう」
そう心に決め、よっちゃんが楽しく過ごせるように、病室では笑顔で明るく振る舞った。
病室の外で医療者と話すときも、涙を隠した。泣いていては、治療に関する重要な話が聞けなくなってしまう。
「一語一句、すべて理解して自分の中に落とし込まなければ。泣かずに、今やるべきことに集中しなければ」と、大切なわが子の命を守る母として、悲しみをこらえた。
24時間付き添いをする親は、心だけでなく、体にも大きな負担がかかる。
病院から借りられる設備は、簡易的なものが多い。照井さんの睡眠環境は、幅60センチの狭いベッドと、とても薄い掛け布団1枚だった。寝返りを打つたびにベッドがギシギシと軋み、同室の人たちに迷惑がかかるのではないかと、落ち着いて眠れなかった。
食事は1日1食で過ごした。親は、病室の外で食事をする規則になっていたが、外に出るとよっちゃんが泣くため、日中は食事が取れなくなった。
夕方に院内のコンビニに行っても、弁当類は売り切れて買えないため、夜仕事を終えた夫が照井さんの夕食を運んだ。
食事の間だけ夫と付き添いを交代し、人がいない休憩室を探して、その日最初の食事を少し口にしながら泣いた。涙を流せるのは、この時間だけだった。ひとしきり泣くと、涙をふいて病室に戻り、再びよっちゃんと笑顔で過ごした。
よっちゃんも頑張って陽子線治療を30回受け、親子で過酷な入院生活を1ヶ月半続けたが、治療の効果はでなかった。
腫瘍は1.5倍の大きさになり、主治医から「余命6ヶ月。3歳になるのは難しい」と告げられた。
よっちゃんは、歩けない、立てない、食事が飲み込めない、話せないという状態だったが、「自宅で家族と過ごしたい」という照井さんの意向が尊重され、5月21日に退院することが決まった。1日も早く、幸大くんとよっちゃんを会わせてあげたかった。
弟が元気になるために
3月31日から始まったよっちゃんの緊急入院は、幸大くんにとっても、突然訪れた悲しい出来事だった。大好きな母と弟が、「午後には帰る」と言い残して病院に行ったきり、帰ってこない。
入院が始まって7日目の夜、幸大くんは泣きながら「お母さんに会いたい」と、照井さんのスマートフォンに電話をかけた。
照井さんは、胸が張り裂けそうになりながら、急いで外出許可をもらい、待ち合わせた病院の駐車場で、幸大くんを抱きしめた。
「寂しい思いをさせてごめんね。お兄ちゃんもすごく頑張っているんだよね。よっちゃんも頑張っているから、もう少ししたら帰るから待っててね。とにかく早く退院するから……」
幸大くんは、何も言わずにポロポロと涙をこぼしていた。
10分足らずの短い対面で、幸大くんは名残惜しそうな表情をしていたが、それから一度も「会いたい」と言わず、寂しくても弟が元気になるために頑張った。
ぼくは泣いていないよ
よっちゃんが元気になって帰って来ると信じている幸大くんに、病状をどう伝えるかは難しい判断だった。
余命わずかだと本当のことを言えば、精神的な負担をかける。死をどこまで理解できるのかもわからない。
だからといって、ショックを与えないように「よっちゃんは治る」と言えば、親に嘘をつかれたと、心に一生の深い傷を残してしまう。
照井さんは、「治る希望がない状況で、幸大のためにも嘘はつきたくない。まだ子どもだけれど、1人の家族として、同じ気持ちでよっちゃんと向き合ってほしい」と考え、事実を伝えることにした。
退院前に一時帰宅をし、幸大くんと一緒に入浴しながら、「よっちゃんはもう長くは生きられない」と話した。
幸大くんは静かに涙を流し、ひとことだけ言った。
「水が出てきちゃった」
涙ではなく水だよ、ぼくは泣いていないよという、幸大くんらしい家族への気遣いだった。
それから退院の日を迎え、よっちゃんが自宅に戻ると、幸大くんはこれまでと変わらず、優しく笑顔で寄り添った。
初めてのレモネードスタンド
退院から1週間ほどすると、よっちゃんは、少しやり取りができるぐらいまで一時的な回復をみせた。
照井さんは、「今なら、よっちゃんと一緒にレモネードスタンドができる」と思い、6月14日に初めてのレモネードスタンドを開催した。
レモネードスタンドとは、アメリカ発祥の小児がん支援活動で、レモネード(レモン果汁に蜂蜜や砂糖を加え、冷水で割った飲料)を販売した売り上げを、小児がん支援団体等に寄付する活動である。
DIPGについて調べる過程でその活動を知り、よっちゃんには間に合わないかもしれないが、いつかDIPGが治る病気になることを願って実施した。
告知は直前にSNSで行っただけだったが、多くの人が訪れ、用意した200杯のレモネードが完売した。
集まったお金は、小児がん研究の未来に希望を託し、「NPO法人日本小児がん研究グループ」に寄付した。
「またやろうね」
照井さんはよっちゃんと2回目の約束したが、開催から1週間が過ぎるとよっちゃんの体調はグッと悪くなり、入退院を繰り返すようになった。
明日が見えない不安の中、できるかぎりのことはやってあげたい、後悔のないように過ごしたいと強く思った。
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