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#4 「call my name」歌詞レビュー「名という呪」AZUKI七


初期のGARNETCROWの曲には名曲が多くて、この曲もその一つ。

時間の流れと共に人の心や気持ちは移り変わって行って、たぶんそれはAzukiさんも同じ。でもたとえ、その都度で違うAzukiさんが存在したとしても、Azukiさんであるという事実は変わりようがない。
AzukiさんがAzukiさんたらしめているのはその魂そのものであって、魂は彼女自身のものでしかないのだから、彼女がどのように変化しようとそれは彼女の自由と言うことになる。

人は色々なものに縛り付けられる。
役職だったり、家だったり、土地だったり、そして本人の名前だったりする。

日本には言霊(ことだま)という言葉がある。
一般的には日本において言葉に宿ると信じられた霊的な力のこと。言魂とも書く。声に出した言葉が現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされた。そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意された。今日にも残る結婚式などでの忌み言葉も言霊の思想に基づくものである。日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」とされた。

夢枕獏さんの「陰陽師」という作品の中で以下のようなやりとりがある。
安倍晴明「なあ博雅……、この世で一番短い呪(しゅ)とは何だろうな」
源 博雅「この世で一番短い呪……? しかし何でおれが考える? おまえが教えるべきじゃないか?」
安倍晴明「さっき言ってやったろう? 名だよ」
源 博雅「おまえの晴明とか、おれの博雅とかの名か?」
安倍晴明「そう。山とか海とか樹とか草とか、そういう名も呪のひとつだ。呪とはようするに、ものを縛ることよ。ものの根本的な在様を縛るというのは名だぞ。たとえばおぬしは博雅という呪を、おれは晴明という呪をかけられている人ということになる。この世に名づけられぬものがあるとすれば、それは何でもないということだ。存在しないとも言える」
源 博雅「難しいな。おれに名がなければ、おれという人はこの世にいないということになるのか?」
安倍晴明「いや、おまえはいるさ。博雅がいなくなるのだ」
源 博雅「だが博雅はおれだぞ。博雅がいなくなればおれもいなくなるだろう?」
安倍晴明「…………。眼に見えぬものさえ名という呪で縛ることができる」

名前という呪は、縛るものであると同時に何かを与えるものなのでしょう。名前を持つことによって、その対象はある実質を持って立ち上がる。そして「文字」はそこに新たな実質を加えるということでしょうか。

実際に日本にも「本当の名前を隠す」習慣はありました。
奈良時代以前の万葉歌謡の時代ですと、男が娘に名を尋ね、娘が「真名(まな)」を名乗ると婚姻を受諾したものと見なされました。「名」が、その本体と同一視される言霊思想の反映と考えられます。
平安時代。女流文学者たちの名前として、紫式部、清少納言、和泉式部、赤染衛門など、多くの女性の名が残されていますが、これらはどれ一つとして彼女らの「本名」ではありません。「女房名」です。本名で呼び合うことを「忌むべきこと」とする習慣が、宮中にはあったのです。やはり、本名が呪詛に使われるのを恐れてのことだったのでしょう。

もう少し日本の名前の話をすると、日本や中国には「字(あざな)」と「忌み名(いみな)」があります。
たとえば、例えば徳川三郎次郎家康。忌み名が三郎次郎で字が家康です。
中国では三国志で有名な諸葛公明がいますが、公明は字で、忌み名は亮です。主人の劉備や父母以外は亮という忌み名は知らなかったはずです。

現代でも、会社の上司の事を階級である「部長」「課長」で呼び「××さん」とは普通呼びません。個人に責任が来ないようにする一種のまじないのようなものかもしれませんが、これは名前による呪を忌むことの名残りだとも言われています。


この「名前」に関してはファンタジー小説の「ゲド戦記」においても重要な意味を持っていました。
本文中には「物象に備わる真(まこと)の名前」を知ることが、魔法を使うために必要なことである」と説明されています。
タイトルにもなっている「ゲド」という名は、主人公である魔法使いの名前であるのですが、それは真の名前であるので、普段は「ハイタカ」と名乗っています。
なぜなら魔法使いは、その真の名前を相手の口から言われてしまうと、魔力を失ってしまうのです。本作中ゲドはその名前を見抜かれ、その名を呼ばれた瞬間、ただの人となってしまいます。
ですがそれは逆に、相手の真の名前を知ることによって、どれほど強大な相手であっても対等に渡り合えることを意味しているわけです。
それがあるいは「悲しさ」であれ、「寂しさ」であれ、仮にどのような名前がつけられるモノであったとしても、それに適切な名前がつけられ、呼びかけられたときに初めて、その支配から逃れることができるというわけです。

で、「call my name」---「名前を呼ぶ」と言う行為が実はとても重要だったりするわけです。逆に考えれば、名前を呼ばれることにより縛られるという反面、名前で呼んで貰うことによりはじめて、そこにその名前の人物として存在できるということにもなるわけです。

「おい」とか「おまえ」とか「あんた」とか呼ぶようになるから、夫婦げんかしたり離婚したりするのかもしれませんね。
「愛」という目に見えない「呪」で相手を縛り付けるためにも、相手のことを名前で呼んでいたら夫婦やカップルはいつまでも円満に暮らせるのかもしれません。

AZUKIさんも彼女がAZUKI七という名前を捨ててしまえば、少なくともAZUKI七という名前にかかった呪は無効になりますし、現在でも本名を知られていないということは、どんな呪も彼女にかけることは不可能なのでしょう。
だからこそ雲のように水のように生きていらっしゃるのかもしれません。

とは言えAZUKI七という名前が独り立ちして歩き出すことを、この歌詞を書いた当時の彼女は何処かで予想していて、「call my name」深読みすればこの歌詞はAzuki七という名前に縛られた自分への呪詛だったのかもしれませんね。

ちなみにネット社会においてはハンドルネームが字なのかもと思ってしまいます。
ネットのハンドルネームによる匿名性に関しては、良い面悪い面あって、結局は使う人の意識の問題なんだろうと思うけど、twitterや2チャンネルでの発言を見て眉をしかめてしまうのは年寄りだからかな。

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