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①守ってほしい、守ってほしかった。「母のようになりたくない」は他人軸

私は自分の悪いところが母親に似ていることで
「母親のようになりたくない!」
と母に対して嫌悪感が出ていました。

私が子どもの頃に受けた母からの仕打ちに、
「自分も母みたいになるのでは・・・」
と育児が不安になったりしました。

子どもの頃、都合よく母が動いてくれなかったことの不満を大人になっても抱えて「私は愛されなかった」と思い込んでいました。

愛された過去がないから、男性ともうまくいかないんだ
・兄弟が多いからしょうがない
・私は平気だし、気にしない
と強がって自分の本音を見過ごしてきました。

ほんとうは幼少の家庭環境が悪かったことも、ずっと引きずって生きてきた。家族の仲がよくなかったことに、小さい頃の私が心を痛めている。でも普通の家庭に生まれたフリをしていました。

・もっと両親が仲が良かったら
・家がもっとキレイで済みやすい環境だったら
・うちが貧乏じゃなかったら

マンガやドラマに出てくるような”助け合える家族”に生まれていたら。理想の家族のなかで生まれていたら、変な私に育たずに充実した人生を送れていたのかな。

ある投資家の人に言われた言葉に救われたことがあります。
「どんな人にも、幼少のコンプレックスや親への不満がある」

お金持ちだろうが頭のいい人だろうが、不満なんかなさそうな家庭に生まれていても、親へのわだかまりはある。

私が異常なわけじゃないんだ、と安心した私がいました。

守って欲しい、守って欲しかった

私の足には、20年経った今でも消えずに残っている傷があります。25才くらいのときに原付バイクでついた傷です。

右あしのヒザ下が縦長に10㎝ほどパックリ割れて、傷の中がぐちゃぐちゃで8針縫いました。

私にまったく過失はなく、怪我をさせた相手は
「入院するわけじゃないから、その傷もいつかキレイに治るだろ。まだ若いんだし。」
と私の足の傷を軽く見ていました。

いえ、傷ではなく私が軽く見られていたのかもしれません。
謝りにくるどころか、経過お見舞いの連絡さえなかったその相手。

私は猛烈に批判の電話をして、謝りに来させました。
いま触ってもピリッとした痛みが走る足。

私が相手に電話するまで、お見舞いどころか心配する電話も1回もありませんでした。怪我をさせた本人は何事もなく過ごしている。

怪我をさせられた私は毎日、通院して治療している。
なんの連絡もないので、傷の状況を知らせることもできない。

「悔しい」と母に、涙ながらに訴えました。
普段の私は、こんなふうに親を頼ったりしません。

できません。

親に相談する、頼る、という子どもらしい機能が欠如していた人間でした。
ですが毎日の病院の帰りすがら辛くて悔しくて、涙が出てきて泣きながら帰っていたんです。

お医者さんに
「この傷は一生、消えません」
と言われたときの25才の絶望感。

母は
「一度家にお越しくださいって、電話したらどう?」
とアドバイスしてくれました。

毎日、病院に通って
「真っ黒に壊死していく細胞を掻き出して消毒してもらって、包帯を巻き直している」
と電話をすると、怪我をさせた相手はすぐに家に来ました。

ですが一緒に味方してほしかった母には、席を外されました。
「お母さん、あっちに行っとくから」
これが記憶に残って忘れられません。

40代の大人の男性を相手に、25才の小娘がひとりで自分の気持ちを言わないといけない心細さ。

私のことを大事に思うなら、こんなときに娘一人に任せたりするだろうか

こういうことがたびたび起こり、親だからこうしてくれるはずという私の期待と裏腹に守ってくれようとしない親をだんだん信用できなくなりました。

親だったら助けてくれるはず
でも親は私をひとりにした。
「親は守ってくれない」
私はそいういう目で親を見るようになりました。

親離れと子離れと

私は20代になっても親に恨みつらみがあるから、ダメ人間のままなんだろうか‥。

アダルトチルドレン
ピーターパン症候群

ネットで検索しているうちに知った言葉です。
幼少のころに傷ついた自分をどうしたら癒せるんだろう。

成人してもなお、トラウマを抱えているのが原因で精神的も大人になりきれていないんだろうか。
心理学のワークをしたり、本を読んだりもしました。いつまでも拘っているから幸せになれない、などネットに書いてあったりもしました。

あるとき母と雑談していて「関東に住んでる兄は元気にしているのかな?」と私が聞くと
「お兄ちゃん、いつ仕事を辞めて地元に戻ってくるんやろ」
と唐突に話し始めた母の言葉に「え?」と耳を疑いました。

兄は高校卒業してから、20年以上関東に住んでいます。
兄から地元に帰ってくる意思などこの20年間、一度も聞いたことがありませんでした。それどころか関東でマンション買おうと思っていると本人から聞いていました。

兄が東京に永住することは母には言わないほうがいいかも、と思ったくらいです。それくらい母は『長男は地元に帰ってくる』と思い込みがあるのかと感じました。

母はニートだった30代の次男にも執着していました。働こうとしない次男に、スマホを買い与えて契約してあげてました。

免許がなかったら通勤しにくいだろうと、まだ決まってもない就職のために自動車学校のお金を出してあげたり。
ご飯も、服も、買い与えていました、30代の健康的な次男に。

「あのこは、腰が弱いから」

だから、仕事が見つかりにくいんだ。と今でも信じています。ここまできたらもう、不思議な物体を見るような気持ちで母を見てしまいます。
母に対して意見しようとも思いません。

同じ時間を長く過ごした家族でさえ、世代も違うし価値観もこんなにも違うんだと思い知りました。

「親」というフィルターを外して見たときわかったことがあります。
この世に正しい人なんていない

親も、あなたの上司も、理想としている人も、テレビに出ているすごい経歴の人たちでさえ、みんなわかってるようでわかっていないし間違うんですよ。

親のことを「おかしいんじゃない?」と咎める気持ちも消えました。
そんな暇があるなら自分に集中しようと思いました。

これは誰であろうと当てはまります。

人の間違いに視点を合わせると自分が間違えられなくなり何もできなくなるし、許容できない人生は自分が生きづらい。

自分も親だからこそわかったことです。 
人間は間違う 私も間違う 
あなたが対面している相手も間違うんです。

「母のようになりたくない」は他人軸

私には「母親のようになるかもしれない・なりたくない」という不安や嫌悪感がありました。

母のようにならないようにずっと頑張っていました。

いろんなことがうまく回らなくて、自分やいろんなものにほとほと疲れてきたとき、自分が母に似てきている気がしてゾッとしました。

・いつも機嫌が悪い
・話しかけにくい
・疲れた、を連発している
・いつも忙しそう

『ああなりたくないは、ああなってしまう法則』というものがあります。いわゆる「反面教師」という言葉がありますが
「お母さんみたいになりたくない!」
と思って成長していくとその行動・思考の基準はすべて「お母さん」がモデルになってしまいます。

「母のようにはなりたくない」という生き方は他人軸であり、母ありきのものであり真に私の望む自分軸の生き方ではないと気付きました。

衝撃でした。

私は被害者になったつもりで「こうしてほしかった」と親に期待していたのです。親は私の都合よくは動かなかった。ただそれだけ。

親からしたら、子どもを裏切ったつもりなんかありません。
私は親にばかり求めてしまっていました。

つづく

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