卒業(小説)
大学の4年時というのは、卒業論文とゼミが2つくらい残っているだけというのが普通なのだが、僕は1年で取ることのできるギリギリいっぱいの単位を残していた。
つまりあとひとつでも落としていれば、4年での卒業は無かった。
2年に上がるときも、3年に上がるときも、そうだった。
年明けの1月に最終的な追試験がある。3科目までは受けられるが、それ以上落とすとその時点で留年決定だ。
12月の初めに検討してみた。1、2年時に取るはずのドイツ語3科目、これは落とすだろう。出席日数が足りない。
その他に1つも落とさないことは有り得ないと思った。
僕は新聞奨学生だった。新聞店に住み込んで働き、学費と生活費を出してもらう。仕事は大変で、授業も出られないことが多かった。
夕刊時に語学などのクラスが決まると、大学側に他の時間に代えてもらわなければならなかった。本来は国文科のクラスなのに、哲学科のクラスで受けていたりした。
もちろん一緒に店で働いている大学生でも、きちんと単位を取って、就職も決める人が大半なのだ。
だけど当時の僕は理想主義で、代返とかも嫌ってしなかったし、内容も把握してないのに試験を受けてもしょうがないという理由で試験を受けないこともあった。簡単にいうと愚かだった。
そのくせに単位としては認められない他学課の授業に出ていたりしたのだから、
目も当てられない。
近代日本文学史という講義があって、試験をしないでレポート提出で評価を決めるということだった。
しかし何を書けばいいのかわからない。
授業は出てなかったので、3年生の知り合いの女の子に聞いてみたが、わからないということだった。
期限は明日ということであり、そろそろ夕刊の時間だったので、まあいいやどうせ他にも落とすのだから、卒業なんてできるわけないしと思って、店に帰ってしまった。
夕刊を配り終えて帰ると、その彼女から電話が掛かってきた。
「レポートの内容わかったんですけど、どうしましょうか」
僕は大学の図書館で待ち合わせをして、自転車で走った。
彼女には他にもいろいろと助けてもらった。
とてもいい子なのだが、付き合うまでにならなかったのは、単純にタイミングのせいだ。
彼女を駅まで送り、自分は店に帰って、そのレポートを仕上げた。
年が明けて単位の認定が発表された。
落としていたのはドイツ語3科目だけだった。
追試が受かれば、卒業である。
しかし、ドイツ語など全くわからない。確か、1Aと1Bと2に分かれているのだが、1がわからないのに2がわかるわけはないだろう。
ドイツ語の単語なんて、わずかしか知らなかったし、文章に至っては
イッヒ リーベ デッヒ (スペルが書けない)
私はあなたが好きだ、というのをしゃれで覚えていただけだった。
卒業してもなんの当ても無かった。
就職する必然性を感じていなかったし、何か文章を書く仕事がしたいと漠然と考えていて、とりあえずはバイトでもしていようと思っていた。
それよりも卒業すること自体を考えていなかったので、たぶんもう1年店にいるんだろうくらいに考えていたのだろう。
簡単に言うと愚かだったのだ。
だから追試の件は放っておいた。1科目1500円くらい払って、大学に申し込まなければいけないのだが。
すると大学から電話があり、
「何やってるの!早く申し込みに来なさい!」と言われた。
仕方ない。
追試は全員が同じ教室で受ける。各自受ける試験は違うのだが。
1科目60分。1科目だけの人は60分以内で提出して出ていく。2科目なら120分以内、3科目の僕は180分以内。
複数の科目を受ける人は、どれを先にやっても、どれに時間をかけてもかまわないが、時間内に提出すること。
試験会場で初めてそう聞いてびっくりした。
というのは・・・・。
僕ももちろん勉強はした。しかしわからない。語学だから一夜漬けなどできない。
3科目のうち、1つだけは辞書持込可だった。
辞書があれば、何とかなるのではないか。
全部ドイツ語で、どんな順番でも、どんな時間配分でもいいのである。
厳密にいえば、辞書持込可の科目以外の答案を書いているときに、辞書が出ていたら、違反だろう。しかし、それは判断が難しいだろう。なんたって全部ドイツ語で、答案用紙も全部机の上にある。だいたい卒業時の追試で1、2年で取るべきドイツ語を全て受ける人などいないだろう。これは制度上の盲点だ、と勝手に解釈した。
そうは言っても大変な作業だった。まるでわからない問題を、辞書だけを頼りに解いていくのだ。制限時間ぎりぎりまで、とにかく粘ってみた。
店にまっすぐに帰った。その間に考えたことは、答案があっているのかどうかの判断がまるでできないということだった。60点取ればいいようだったが、そのくらいならできたような気もした。しかし、わからない。
一週間後だったろうか、二度目の卒業決定者の発表があり、僕の名前があった。
うれしいとは思わなかった。追い出されるような印象があった。
店を出て、家に戻らなければならない。就職する気などさらさらなかったし、就職先が見つかるとも思えなかった。
確か五日後くらいが卒業式だったが、もちろんそんなものに出る気はなかった。
しかしそれに出ないと卒業証明書がもらえないらしい。思い直して、店の近くの製造卸売り販売の紳士服の店へ行き、スーツを作った。三日後と言ったら、呆れられた。入学式に来たものが着られれば良かったのだが、他人のもののように小さくなっていた。
卒業式はなんの感激も無く終わった。
謝恩会など何の関係も無いものだろうし、卒業アルバムも申し込んでいなかった。第一、写真の撮影に行っていない。唯一の友人は留年した。
武道館から出て歩いていたら、レポートの件で世話になった1年下の女の子が、他の何人かと研究室の先輩を待っていた。卒業すると思っていなかったらしく、驚いていた。
卒業式といえども、夕刊の配達はある。もう卒業したのだから、店にいる理由はない。いつやめるか。家に帰って、どうするのか。何も決まってなかった。なんの当ても無かった。配達をしながら考えた。
4年間、とりあえず配達さえしていれば、全てが流れていった。
大学さえ行っていれば、それでいいということになった。
何もしていないのも同じだったのに、仕事と大学を両立させて偉いということになり、全てが正当化された。
ただ正当化されていただけだ。正当だったわけじゃない。
この卒業も本当の卒業ではない。
追試に合格したのも本当の合格ではない。
全てが本当ではなかった。
なにか本当のものを自分で作らなければならなかった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?