8月のマーマレード
長梅雨が終わったと宣言された途端、煮詰めたような夏が来た。
七月一杯降り続いた雨がスイッチを切り替えたような陽射しに、過ぎた季節ごと蒸発して行く。
春が終わるとき、梅雨はいつもそれを洗い流して行く。
雪溶けにほころびた蕾の季節を、雨はいつだって丁寧に洗い上げて夏を連れてくる。
けれども今年の梅雨ときたら洗い流すどころか、すっかり水浸しにしてまるで洗い流すどころでは無かった。
ともすれば冬と春を沈めた水の底で、いつまでも肌寒く七月は陽射しさえ遠く過ぎた。
冷夏を慮る声が聞こえはじめ、葉物野菜の値上がりが顕著になった頃、ようやく割れた雲間から差し込んだのはよくもまあ、昨日まで隠されていたと感心するばかりの夏そのものだった。
すっかりふやけた季節は流されるのも忘れて、夏でぐつぐつと煮立っている。
立秋頃になんとか間に合ったセミ達が、お盆を前に遅い蝉時雨を降らせては落ちていた。
なんともまあ、夏だ。
私の生まれ育った山は高原なので、夏とは言えクーラーもいらずセミの声も遠い。
東京で迎える夏の一部始終は、私を映画の中にいるような気分にさせた。
それは初めて東京で夜に起きた時、窓越しに見る街灯の灯りがまるで水族館を彷彿とさせたのにも似ている。
人工の光に照らされた夜が青く、まるで水槽の中にいるみたいな東京の夜はいつもドキドキした。
全身で浴びる、蝉時雨。
一歩外に出れば、夏が確かな質量を持って肌に纏わりついてくる。
息を吸い込めば、体温のような温度が湿度と共に流れ込んで来て、木陰にすら夏が充満している。
熱されたアスファルトの匂い。
重たい空気。
初めての夏なのに、それはいつか本で、映画で見たことのある夏だ。
知らないのに知っている、日本の夏が物理的質量を伴ってのしかかってくる。
洗い流しそびれた季節の名残が煮えたって、より濃厚に質量を増している気がする。
甘く、苦く、爽やかに、それらを全て乗せた風が時折全身に吹き付けてきてこびりついた。
外を歩くとベタベタになるので、前にも増して洗い流すものが増えた。
コロナ禍で身についた手洗いや帰宅後のシャワーは、より念入りにするようになった。
七月に使っていたLUSHの石鹸が終わったので、新しくおろす石鹸を選ぶとき、夏らしい海色の石鹸とオレンジの石鹸で迷った。
微細なラメを含んだグラデーションの綺麗な青い石鹸は海のようだったけど、破いたのはママレードの包み紙。
この石鹸が終わる頃、八月も終わるだろうか。
煮詰まった季節が幾重にも層をなして、大気圏に充満しているような目眩と錯覚。
ありもしない水面が、灼けたアスファルトを逃げて行く。
蝉時雨はまだ止みそうに無く、夕立の気配が微かに香る。
ジャムのように煮詰まった重い空気を掻き分ける、今年の夏は今日も深い。