高橋幸宏
北東北の田舎で育った僕は中学校~高校期にYMOにどっぷりハマっており、高校三年の時に、すでに解散(散解)していた各々の道を行くメンバーの三者三様を音源を通し追っていた。
※余談だが、解散後の個性的な三人の息吹を少しでも執着したく、いわゆる「アルファ商法」に引っ掛かり、コンビニのバイト代を全て持っていかれている(笑)。
YMOの、とりわけ高橋幸宏氏のBreeze的なメロディが好みだったこともあり高校卒業の辺りから(いわゆるポストバブル期になるのだが)、当時毎年リリースされていた彼のアルバムを意図的に追っていた。
YMOのインスト好きだった僕は、一時、彼の「音楽殺人」というアルバムで幻滅するが、90年代にリリースされた彼のアルバムには不思議と共感が持てた。
なぜなら、当時彼女もいなく、気弱に片田舎で悶々としていた僕にとって、当時90年代の彼の音源から「東京」を想像し、またモテない自分から発するすべての「女子」に対する反訴を彼の歌詞に見出していたからだ。
また、気だるい曲調の中に漂う歌詞の中に「武士は喰わねど高楊枝」的な高潔さも感じ、それらを一緒くたにして自身の心に纏わせていたような気がする。理論武装ならぬ「音源武装」ともいうべきか。
事実、東北の田舎街を歩く、自身の心に宿すBGMは一時彼の音源で占められていた気がする。
ところがこの、一瞬の彼へのブームも、音楽の勉強のため上京した直後から興味を失い、また、YMOの存在自体も、自分の中で、今でいう「黒歴史」的なものに変わってしまっていった。
上京直後、世間では小室ブームが始まっており、それにつられてテクノ再発見的な風潮に変わり始め、そんな矢先YMOは再度復活を遂げたもののパッとせず、また僕の興味もクラシック音楽と、なぜだかレゲエになっていく。
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僕も40代の後半となり、アルファ商法でどっぷりカネを持っていかれた当時では考えられなかった、定額制で音楽が聴き放題というアプリの恩恵の元、当時の彼のアルバムを聴き返している。
ところで、聴きながら曲のタイトルをざっと眺めて感じたのだが、やたら「愛」とか「天国」とか「幸福」とかの文字が多い。
はっ、と感じたのだが、当時(モテない)男側からの女子たちへ向けたアピールかと思って90年代年代いた歌詞は、実は、
「鬱」
を通しての、自分が自分の内面に向けた壮絶な葛藤の末から産み出された歌詞なのでは?と思うようになった。
そう思った瞬間、歌詞への見方が完全に変わる。歌詞自体はとても素朴で簡易なものと思うが、もし先の自分の仮定で見るとしたら壮絶なものだ。
そんな歌詞が、breezyかつビートルズ的なハーモニーに漂わせ、まるで目立たないブルーを目指すような音楽、そんな印象を改めて持った。
ちなみに、いわゆる「サンプリング音源」や、音楽を彩る様々な楽器群に服飾的なセンスを感じる。
彼のバックボーンの「デザイナー」がそうさせているのかも。
自分にとって、当時未知だった90年代の東京の印象を、今でも褪せることなく正直に映している気がする。