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「万物の黎明」シリーズ:歴史の授業と縄文時代以前

前回の記事:

「なぜ日本史の教科書は縄文時代から始まっていたのか」に戻ります。

「万物の黎明」は、膨大な人類学の資料を参照しながら、これまで記述されてきた社会進化論を批判する実験です。著者はイギリス人ですが、日本の縄文時代の話も度々出てきます。「縄文時代以前をもっと研究するべき」というくだりを読み、ある「気づき」が降りてきたので、そのことについて書きます。

佐野洋子さんのエッセイに、数が1から20までしかない未開社会の話が出てきます。手の指と足の指を使って数えられる数が限界で、それ以上は「たくさん」と表現すると。なんなら私も、縄文時代以前を「おおむかし」の一言で片付けていて、それは数を20までしか持たない世界観に少し似ていると思ったのです。

なぜ自分の中で歴史限界が縄文時代なのか。それは昭和の義務教育で習った日本史が縄文スタートだったからです。そして、なぜか「縄文」と「弥生」は他の時代に比べて丁寧にやった記憶があります。

4月に新学期が始まって最初に出た歴史の宿題が「9000年前の日本人に手紙を書く」でした。そして縄文式土器と弥生式土器の違いについて長々と説明があり、あっという間に夏休み。秋も深まると一つの時代区分にかける時間が短くなりました。各時代の日本人に手紙を書くといった重厚な宿題はなくなり、近現代は学年末が迫っていたので超特急で駆け抜けました。その結果私は、土器の模様についてはよく覚えているのに、世界大戦とその後の日本については、今ひとつ良くわかっていないヤングアダルトになりました。

日本の学校は、私たちが生きている時代に近い歴史をもっと詳しく学ばせるべきでは?私は長いことそう思っていたのです。

カナダに来てから、とある中華料理店の親父に、「あんた日本人?日本の政府が日本人に教えてることって全部ウソだよ」と言われたことがありました。ほうほう、じゃあ中国政府が教えている真実について語ってもらおうじゃないの、と喧嘩を買いそうになりましたが、自粛。

ムカつく反日親父の言葉だろうと、きちんと傾聴するのが人文科学系の勤め。確かに、「新石器時代は丁寧に、近現代はやっつけ仕事」な歴史の授業は、お上にとって都合のわるい歴史を子供に深堀りさせたくないのかも、と思わせるものがあります。

日本人は遠い古代について無駄に詳しく学ばされている、そのせいで近現代の学習が犠牲になっている。そんな思いにツッコミを入れてくれたのが「万物の黎明」でした。

この本は、社会的不平等の起源をテーマとしています。人類が農耕をはじめ、富の蓄積が可能になったが故に不平等が発生した、という通説の疑問点が丹念に解きほぐされています。その中で、読者は農耕以前(日本であれば弥生時代以前)の社会が、「おおむかし」の一言で片付けられていることに気づかされます。

もともと、なぜこの本を読もうと思ったか。それは世界中でポピュリズムの大嵐が吹き荒れる現在、社会的不平等について再考せねば、と感じたからです。時代の最先端を読み解くために、石器時代以前に目を向ける、それは人文科学に大きな可能性を感じさせる試みです。

人類が両手両足の指の数「20」を超えて数学を極めていったように、人文科学は私たちの知識の現在地が「20」かもしれないと認識することで、知の地平を広げていけるのではないでしょうか。

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