そしてわたしは、グラニュー糖を盛った。
『あんたは・・・
人以外には、やさしいんやな』
〜by マチコ
この日、そうわたしに言い放ったのは、わが母・マチコ(仮称)だ。1985年、21年ぶりに阪神タイガースは優勝し、カーネルサンダースのおじさんは道頓堀川にダイブした。わたしは思春期NOW ON SALE の真っ只中だった。
理想と現実。丁か半かの白黒思考。潔癖とルーズの二刀流。焦燥感につっつかれた挙句の出たとこ勝負は、とんちんかん。大人にうんざりし、大人に憧れ、総じてアンバランスなわたしの毎日は、センチメンタルにジャーニーしていた。
が、どれだけジャーニーした日も、一日の終わりには、お風呂がわたしを待っていてくれる。お風呂は、わたしを〝さらぴん(訳:新品)〟にしてくれる。
「くっそぉー!風呂なんて入るんじゃなかったわ!」などと、わたしに悪態をつかせることなどない。お風呂はいつだって、わたしの味方。今も絶対的な正義だ。
当時、家族と暮らす社宅の風呂場にシャワーはなかった。湯船に張ったお湯を洗面器で、すくってはかけ、かけてはすくう、シャワー導入に遅れをとっていた我が社宅ゆえのシステム。ジャバーッと放った湯は、床全体に敷き詰められた何色とも言いがたい玉石タイルを濡らし、迷うことなく排水口へと流れていく。
その夜も、わたしは洗面器にすくった湯を……
ん?
放つ寸でのところで、手を止めた。
目の端に、なにかが……。
右手に洗面器を持ち、湯船に向かって前のめりなポーズはそのままに、視線だけを可動域いっぱいに落とす。いた。
クモだ。
ちいさな黒いイエグモが、風呂場の床にポツネンと佇んでいる。
目が……合った気がした。
クモの目が一体どこにあるかなんて、当時は知りもしなかったが、合ったのだ。
あかん。
ジワつく。じわじわとジワつく。クモの〝生きている〟が、ぶわぁーっ!と大きく広がって迫ってくる。わたしは今も昔も情けないほど、いのちにへっぴり腰なのだ。
このままでは、わたしが解き放った湯が、クモを道づれに玉石タイルの上を流れ、排水口へと吸い込まれ……アデュー。
あかんわ。
髪を洗っている場合じゃない。クモを風呂場の外へ避難させねば。目的地は洗面所だ。両手でクモをすくい上げ風呂場の外へ連れ出せば、難なく一件落着なのだが、あいにく、わたしにそのスキルはない。ひとまず洗面器の中の湯を浴槽に戻し、水気をできる限りはらった。残った水滴で、手負いのクモにするワケにはいかぬ。
さ、さぁ…ぁ〜ぁ!
へっぴり腰な決意を、奮い立たせるよ。
クモを驚かせないように、ゆっくりとしゃがんだらスタート。細心の注意を払い、洗面器のフチでクモの背後から〝ちょんちょん〟と振動を伝える。
直接ふれるは禁物です。
断じて手負いのクモに
するワケにはいきません。
そうなれば元も子もないのです。
こちらとしては、洗面所への最短距離の誘導を試みているのだが、クモはピョンッと明日、ピョンピョンと明後日の方向に移動する。真っ裸に洗面器のいでたちで挑む『クモ追いの儀』は思いのほか手こずった。
「あんた、あかんって。こっち、こっちこっち。」
クモを〝あんた〟と呼んでいる。
ますます、あかんことになってきた。〝生きている〟が迫るだけではなく、わたしはクモの生活を考え始めた。アホだ。
このクモは、家に帰る途中
やったんかも知れん。
きっと、クモの家族は
心配しているだろう。
あんた、ともだちと
待ち合わせしてたんか?
きっと、クモのともだちは
心配しているだろう。
何より、この子の心境を考えた。
この時点で、クモが〝この子〟になっている。
「大丈夫!あんたの予定通り、ぜーったい、ともだちと会わせたる!」
「家族の待つ、家にも帰れるからな!!!」
このアホな妄想グセが、いまの仕事に活かせていることを切に願う。
かなりの時間を要したものの、彼(クモ)を風呂場の外へ連れ出せた。彼がともだちと、どこで待ち合わせているのか、彼の家がどこなのか、わたしには知る由もない。が、排水口ではないことだけは確かだ。彼は生きている。そして彼の生活はつづいていく。
「でこずって、ごめんな。
ばいばい、元気でね。」
晴れての出発を見送りたかった。わたしは、右手に洗面器を握りしめ、真っ裸のいでたちだったが、彼の一歩を見届けずにはいられなかった。毛穴という毛穴から大粒の汗がふきだしていたけれど、わたしには、絶対正義のお風呂が待っている。大丈夫。
固唾を呑んで、その一瞬を待っていた。が、彼はピクリとも動かない。
……警戒しているのか?
当然だ。ぼーっと佇んでいたら、いきなりパニック映画の主人公にさせられたのだ。こちらとしては水難からの救出劇に胸をなでおろしていたが、彼の恐怖は、まだ続いているのかも知れない。
もう、何もせえへんからな、安心してね。
自己満足に浸る自分を恥じ、はやる気持ちを抑えた。
気長に待とう。
……が、やはり微動だにしない。なんでや。
あ!そっか!
エネルギー不足や。あれだけ、ぴょんぴょんと動き回らせてしまったんやもん。ほんま、ごめん。疲れたやんな。
……そして、ひらめいた!
わたしは誰もいないことを確認し、台所へ急いだ。軽量スプーンの入った調味料入れからグラニュー糖をひとさじ拝借し、足早に彼のいる洗面所へと戻った。これ以上の恐怖を与えないように、彼の足元から数センチ話した場所に、そーっとそれを盛った。
「よかったら、たべて。」
「疲れたときには、糖分やから。」
湯船につかりながら、ドア越しのクモを思った。
あの子 グラニュー糖 食べたかな
お風呂を済ませ、そーっとドア開けて床を見た。
そこには、ちいさなグラニュー糖の山だけがあった。
よかった。動けたんや。クモ、出発したんやね!
母をたずねるマルコを思った。家族、友人と抱き合うクモを思った。
よし。わたしは、グラニュー糖の山を片付けるよ。
と、目の端に、なにか……。
ほっと一息ついたわたしの背後に、母・マチコが佇んでいた。
あんた なにしてんの ?
ジャーニーなわたしに、日々うんざりしている母・マチコ。思春期の押し売り被害者ナンバー1の母・マチコ。真っ裸で、洗面所の床を這う娘をみつけた母・マチコ。
えっ、別に…とだけ答え、わたしは洗面所からマチコを追い出した。
翌朝。ジャーニー娘の隙をついた母・マチコに、わたしは再び問われた。
グラニュー糖のくだりは、さすがに〝とんちんかんが過ぎていた〟と、一夜明けて自覚していたので「オフロニ イタ クモヲ ツレダシタ」とだけ答えた。それを聞いた母・マチコの口から、まったく抑揚のないトーンとまったくの無表情で、冒頭のセリフが放たれた。
2023年某月。母・マチコに、ひょんな流れで、あの夜の全貌を話すと『えぇぇ〜! えっ? うっそ〜! あんたアホやな』とゲラゲラ笑い『そんなことあったっけっ? いややわ、お母さん、全然覚えてないわ〜』と、笑っていた。
翌日、電話が鳴った。母・マチコだ。
『もしもし?
あのクモの話さ
ジムのともだちに話したわけ〜』
「うん」
『むっちゃ、ウケたわ〜!』
と、また笑い出すマチコ。
ウケたウケたと大笑いするマチコ。
マチコが満足げだ。
よかった。
・・・きょうは、これにて〜!
最後までお読みいただき、ありがとうございます。