君と異界の空に落つ2 第3話
瑞波(みずは)は分かりやすく怒った顔をしていたが、怒りが積もれば積もる程、無口になって無表情になる、そうした性格の部分まで理解されては いなかった。
耀乃(あけの)の世界から、こちらの世界へ降りて、凪彦に押さえ付けられていた一年半……程か。その間、姿を見る事も叶わなかった瑞波の意識は、過保護を超えて執念になり、あれだけの柱を立たせるに至った。
やっと凪彦に解放されて、耀乃が入った人間の童子を抱いて、どうしてこれだけの穢れを未来の伴侶に呑ませたか。凪彦への冷めやらぬ怒りが胸の中に存在していて、けれど、耀乃は「自分が望んだ」の一点張りであり、やっとお前に会えたな、と、彼を慈愛の眼差しで見るのだ。
待たせて悪かった、と、視線に灯るのは同じ言葉だ。待たせて悪かった、これからは暫く一緒だぞ、と。古い名の耀乃ではなくて、耀(よう)と呼んで欲しいと言うが、上手く切り替えが出来ないのは瑞波の方らしい。分かっているが切り替えられず、つい、古い名で呼んでしまう。耀はそんな瑞波も愛おしむようにして、想い過ぎて人の世に憤りがちになる瑞波を宥め、俺は大丈夫だよ、と、彼を安心させようとする。
それが分かっているから、一応、彼も遠慮を見せたのだ。何故なら、人の子供には、食べ物と住む場所が要るからだ。それに、耀はその時、分かりやすく嬉しそうな顔をした。最近、顔が曇っているのに気付いていただけに、晴れやかに期待する顔を見てしまった瑞波には、そこには行きとう御座いません、と伝える気持ちは無くなっていた。
亜慈(あじ)は悪い男では無かったし、祓えの神の目線で見てみても、清々しい部類の男に見えたのだ。耀の”穢れ”を”禍神”と推測したあたり、勘はいまいちのようだけど、遠からず。自分の才能に見合う修行もして見えた。二人きりの旅が始まってから、最も好感を持てるような、澱んでいない綺麗な部類の人間だったのだ。そんな男だったから、瑞波も許していたのである。
きっと耀も同じように、視えないながらも感じ取り、信じても大丈夫、と思ったのだろうと考えた。瑞波の心労は絶えないが、耀は利口な人間だ。あとは自分の気持ちと、耀を生かす環境と、何処かでは妥協しなければいけない、想像はついたのだ。
想像はつくけれど、嫌なものは嫌なのだ。
我慢しなければいけないだろうが、我慢できない怒りがあって、何処へも吐き出せそうにないから青筋が立つのである。
瑞波は耀の後ろに立って、静かに怒りと向き合った。その直ぐ側で、亜慈はぶるりと身震いをする。
「お前の中の禍神が暴れているな。祓われる気配でも感じたのだろうか」
全く見当違いな事を言い出す男を見遣り、呆れた気持ちもあって、瑞波は別の事を思い出す。
『耀(あけ)……いえ、耀(よう)』
ん? と。
亜慈の後ろで悟られぬよう、耀はちらと瑞波を向いた。どうしたの? と無言で掛ければ『祓わせて下さい』と。
うん、と無言で頷いて、耀は自分を抱きしめてくる瑞波を受け入れた。
真っ白な着物を纏い、涼やかな飾りを揺らし、彼の腹に合わせるように屈んだ神だ。彼の腹を抱きながら、中の穢れを取り祓う。
半透明の存在だから互いに触れ合う事は出来ぬが、触れ合う真似をするように、肉体に合わせた抱擁をする。この時ばかりは瑞波の態度も大分(だいぶん)柔らかく、怒っていても怒りを忘れ、小さな笑みを零すのだ。
瑞波からしてみれば、耀の穢れは憎いけど、堂々と愛しい人に触れる真似事ができる時間になる。職務を前面に出してはいるが、仕事を盾にして、個人的な欲求を満たせる時間でもあったのだ。神の気持ちは単純で、ただそれだけで満たされる。だからどんなに怒っていても怒りは鎮まって、いっそ、恥じらう乙女のような清浄な存在に戻るのだ。
そんな瑞波に朝、昼、晩と、まめに祓って貰えるおかげだろう。今の所、耀は不調を感じる事がない。少し体が重いだろうか、その程度の感覚で、勘が鋭いらしい人に嫌悪されるだけである。それも、亜慈くらいの能力者なら、どうして嫌な気持ちになるのか、理解してくれる所までいくらしい。この先の寺の住人がどれだけ理解してくれるのか、分からない話だとしても、多少は期待をしてしまう。
取り敢えず、少しだけ勘違いをしている亜慈に対して、「昼が近くなるとこうなるのです。深い呼吸をすれば、直ぐに治りますから」と。それらしい事を言い、理解を求める態度を示す。
「そうか? そうなのか。確かに暴れている気配は消えたな。お前の体調と関係しているということか? 全く……難儀な業を背負った小僧だな」
実は亜慈が”暴れている”と感じた気配は瑞波のもので、耀の中の穢れを禍神と誤解したように、彼の中では色々と、視えない世界の情報が、混ざってしまっているようなのだ。
耀は、そうなのだろうけど……と敢えて訂正する事を選ばず、その人が思う通りに話を合わせる事にした。人に寄って視え方は様々、感じ方は様々で、自分も悪鬼悪霊の類は視えない人間なのだから、いちいち隅をつつかなくても良いじゃないかと思ったからだ。
もしこれが仕事なら正確な情報は必要だろうが、耀は困っていないし、互いにそこまでの関係じゃ無い。難儀な小僧、という印象のまま、冬を越せるかもしれない施設を、紹介して貰うだけで良い筈だ。
亜慈は一種の哀れみを浮かべ、慈愛を思い出した顔をした。むん、と口を噤むと、朱色の門へ手を掛ける。
「もし! もし!」
頼もう! というやつだと思った耀には、そんなもの? という細(ささ)やかな疑問が浮かんだ訳だけど、この時代、挨拶をする事自体、実は少ない世の中だ。
二人で過ごした数日間、どれだけ彼が耀の事を、”丁寧な小僧”と思った事だろう。余程厳しい師匠に育てられたに違いない。そう思い込まれていた事を、耀が知る日は来ないのだろう。
少しして、浄提寺(じょうだいじ)と比較してはいけないだろう、朱色の門が開いて、目つきの悪い坊主が顔を見せた。疑り深そうな顔をした男性で、怪訝そうにもするものだから、余計に人相が悪く見え、好印象とは程遠い。亜慈を見つめたきり無言で冷たい態度であるので、知り合いでは無いのだろう、それだけ分かった雰囲気だ。
亜慈はそうした相手の気持ちを分かった上で、雲僧をやっております亜慈という者です、こちらの和尚にお世話になった事があるのですが、お会いさせて頂く事は出来ないでしょうか、と。このような内容をつらつらと口にした。目つきの厳しい坊主はうんともすんとも言わずに引っ込み、暫く待たされた後、お入り下さい、と。
通されたのは本殿だ。とは言っても、浄提寺とは比べるまでもなく質素な造りの場所である。この地方まで旅をしてきた間、横目にそれらも見てきたが、耀が拾われた寺というのは豊かな方だったらしい。或いは、都に近い故、銭を落としてくれる客が多かったのか、あれだけの大所帯でいられた部分もあるらしかった。
それに、信心も、所変われば変わるらしい。見るからに埃が積もった瓔珞(ようらく)を見て、耀は無言になったというか、不安な気持ちになったというか。寺の空気もどことなく寂しげで、ぎすぎすしている様子も見えた。
お客様が来れば、慌ただしくしていた厨(くりや)である。何故ならお茶を出すからで、それが無い事にも驚いた。これらは全て外に出て初めて分かる事であり、この時代にあれだけの事が出来ていた、浄提寺の”力”を知ったのだ。
自分は大層、恵まれていたらしい。
瑞波とは一緒だが、人間一人きりになり、人の営みの中を歩くうち、薄ら感じてきた事だけど。
本殿の端、縁側の汚れ具合、板張りの床の穴、翳った仏像の顔を見て、耀は今頃、自分のお師匠様が、自分の事を心配し、矢鱈とあれやこれや持たせてくれた理由に気付き、肌が粟立つ感覚がした。
大僧正様も、どうしてもという時は、と。
どうしても一人で生きられなくなった時……それは、相当に追い込まれた状態なのだろうけど、その人の意識には、そうした状況が見えたのだ。
今、耀がこうしているように、耀が想像したより早く、追い込まれてしまうだろう事。それらが大人達には見えていたのだろうと思う。
浄提寺の大人達は彼岸に片足を入れながら、俗世を知らぬ顔をして、俗世をよく理解していたのだろう。
だから……だから……と。静かに耀は頭で悟る。
世話になる、とは、こういう意味なのかも知れない、と。
この貧しい時代において、等しく互いに貧しい中で、世話になろうと思ったら、対価に何を差し出すか。
それを対価などとは言わないのかもしれないけれど、そうであるなら差し出すものは、自分が持てる、恵まれた部分────。銭があるなら銭を差し出し、物を持つなら物を差し出し、力があるなら力を差し出し、何も持たぬなら体を……と。
あぁ、成程。成程……と、幼いながらに理解した。
そうして、この場所が、そういう場所であるように思う。
亜慈は此処の和尚と穏やかに話をするようで、和尚の顔は下卑た気配が何と無く漂った。ちら、ちら、と耀を見る度、嬉しそうに口が歪むのだ。好ましいとは言えないなぁ、と、耀は”大人の感性”で、表情を変えぬまま、「ふぅ」と心で息をした。
「所で和尚」
話を変える、亜慈は核心に迫るようだ。
「こちらで、この小僧の面倒を見て貰う訳にはゆきませぬか」
和尚は”良し来た”という顔をして、「丁度、小僧が欲しいと思っていた所よ」と。横に控えた坊主が一人「和尚、うちでは賄えません!」至極現実的な答えを口にしたけど、「英章(えいしょう)、そう言うな。可哀想ではないか、え?」と。
「身寄りが無いのだろう?」
「はい……」
「ほれ、お前と同じよ」
と。
同じ身の上にある者同士、助け合わずに何とする。
まぁ、中々立派な事を口にする。
亜慈も思う所……というか、預ける上での責任感があったのだろう。
「和尚も感じておられる通り、中々難儀な小僧でありまして……」
「ふむぅ……そうさの。まぁ、私の力があればこの位は……」
息をするように嘘をつく、和尚を見遣り、耀は無言だ。
謙虚な気持ちで人を見ようと思っていたが、この人は亜慈よりも力が無い、と直ぐに分かった。むしろ、和尚の隣で、悪い目つきを更に悪くする、弟子と思しき男の方が勘が働くようである。反抗しても良い事が無い、と分かっているようで、弟子は何も言わなかったが、仲良くする気が無いのは分かる。
耀は悩んだ。
遠慮した方が良いのかも知れない。
だが、繋いで貰った縁だ。
それに、見知らぬ土地に来て、初めての冬を越す自信が自分に無い。
此処に来るまで祓えの神と生活を共にして、そうした事への干渉は不可能なものが多いのを知った。寺の書庫、文殿(ふどの)において、沢山の書物を読んだおかげで、耀は神たる存在がどのようなものかを知ってはいたが、人によって出来る事と出来ない事があるように、神によっても出来る事と出来ない事があるようだ。
勘の鋭い動物や人、それらに”予感”を与える事は出来るけど、空飛ぶ鳥を射抜けないように、瑞波は耀の肉体を維持するような、基本的な事柄に関与出来ない。今の所、神と生きる事に不満は無いけれど、矢張り瑞波は”祓えの神”で、それ以外を期待してはいけないようだ。
自分の足で立つ必要がある────。
耀は一番はこれだと思う。
それでも体は子供であるので、大人の力を借りねばならない。借りられるなら借りた方が良く、謙虚に言うのなら、これも”学び”なのだろう。
腹を決めた少年は、すっと息を吸い、頭を下げた。
「和尚様、お弟子様、どうかよろしくお願いします」
姿勢の良い土下座である。
こうして耀は名も知らぬ小さな寺院へと、入信、そして世話になることを決めたのだ。