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君と異界の空に落つ2 第72話
前だけ見ていた”さえ”と耀は、その気配に気付かなかったらしい。
さえは岩の先で足をぶらぶらさせて、涼を求める姿を見せた。
耀は師匠の後ろに控え、平らな所であぐらをかく。
その横に丈弥が並び、瑞波は奥に控えたか。
空は藍色に染まったら、一足飛びで暗くなる。夏の湿気をそのままに、深みのある夜と感じたか。何処からか虫のか細い声が聞こえていたけれど、一刻経って近くに響き、川辺に蛍が瞬いた。
「さえさん、用を足してきて良いですか?」
「構やしないよ。足元にだけ気をつけな」
はい、と素直に、後ろの木陰に消えた耀だ。丈弥は離れた耀の分を、新たに囲った気配があった。このたった一刻で、彼は結界を三つ維持するという、初めての試みをする事になる。
感覚としては上手くいった。壁は薄いが、耀の気配は隠されたままだった。あちらの世界の存在からの攻撃は弾けないが、まずまずといった所か、と丈弥は思う。
実世界では耀の足踏みで下草が揺れ、枯葉や小枝が折れた音。虫の声はまた遠ざかり、そちらも上手くならねばならないな、と。
さえが何を考えたのか二人は知らないが、尋常じゃない守護さんだね……と、概ね呆れた顔をした。有名な大師様だって、こんな事が出来るものかいと。あるいは強い札でもあれば、似たような事は出来るのだろうけど。少しばかりあの世に触れる才能があったとしても、学を持たない”さえ”には出来ぬし、想像するしか出来ない事だ。
僅かな土地を囲うは分かる。動き回る人間を囲ってしまえる結界を、同時に維持する……維持出来る、その神経が分からぬ、と思うのだ。
弟子が”守護さん”と言い張る丈弥は……丈弥の気配は神さんに近い。人は神など作れぬし、ならば式と思うだけ。式を作るのは才能如何。維持するのはもっと大変だ。うっかり弟子が才を開かせて、作ったと思う方が自然な事だ。違うと言うから違うのだろうが、一体どれだけの拝み屋が、作った式や神もどきに、食われてきたと思うか、と。
さえの視線は呆れに近く、驚きを通り越し、尊敬すらも飛び越えた、無感情の域である。生まれたばかりの”守護さん”は、既に自立しているからだ。信じられない力を持って、自分の意思で動いてくれる。主人が指示を出さずとも、最適な”守り”をしてくれる。例え主人が居なくなっても好きに生きていくだろう。丈弥はそれだけの力を持った”守護さん”で、今以上に強く育つと感じた”さえ”の見立てなのだから。
耀を守ってくれるなら良いけれど……願わくば、耀が守護さんの力に溺れぬ人になる事だろう。大丈夫だろうとは思うけど……と、過去、見てきた人等を思い、飲み込んだ”さえ”でもあったのだ。
そこから先はいかに弟子でも、弟子の人生なのだから。触(さわ)れぬし、触らぬし、責は本人に取らせねばならぬ。それが拝み屋の理法であって、拝み屋の道、人生だ。いかに優れた人であっても、驕れば一瞬、地獄へ落ちる。あの世とこの世の境の綱を渡らせられる人間達。此れも罪、此れも業。好んで落ちるようでいて、選ばせられるようでいて、その実、その道を、行く事が決められた人間だから。
力というのは諸刃であって、悪を滅するが、自分も滅する。歯に衣、着せねば殺(や)っただけ、殺られる、傷を受けるもの。さえはこの仕事をしていると、ふと思う時がある。落ちろ落ちろと言われるような幻聴を感じる時があるのだ。
それは時に神仏に、言われるような気分になるか。生まれ”落ち”、罪を償い、これ以上業を背負わぬように。無茶な仕事をすると傷付く。せめて魂を削らぬように、負担は肉体(からだ)に向かわせる。
それで半日、数日を、寝て過ごす事になるけれど、一人、誰にも会わずに床に転がり過ごしていると、自分の”生”を考えるというか、自分の”行い”を考える。
その時間があったから、さえは無事だったと思うのだ。因果な事をして銭を稼いだ、罪悪感や後悔だ。周りには強気しか見せないが、驕った事など一度も無い。あたしはこれしか出来ないから……と、静かに泣いた日々である。自分を傷つけながらしか生きられないと知りながら、その道を行くしかないのだと、思い知らされて生きるのだ。
いつか。
いつか耀も、それを知る日が来るのだろうか。
向けるべきではない同情を、今だけは、と、向けてしまう”さえ”である。せめて良い師匠でありたいと思う。弟子が道を踏み外してしまわぬように。良いも悪いもあの世もこの世も巡り巡って”道”となる。自分だけが歩む道、どうか、幸いがあるように。もう半分を生きたつもりのある”さえ”だから、せめて弟子の一人でも救って逝きたい気持ちが強い。
伝えられるだけの”技”を伝える。耀の助けになるように。そうして弟子が多くのものを救っていける人に成れたなら、巡り巡った因果の先で、さえの幸いに変わるから。
それにしたって難儀な道になるのだろうと思うから、格が違う守護さん諸共、呆れた顔で見遣るのだ。いつか綺世(あやせ)が零したような、持つべきものの道である。誰かと話を合わせずとも、肌感覚でそう思う。これだけの力を持っていて、何も無い訳がない。何も無い訳がないのだ、苦労を強いられる人生だろう。
それを知らぬ束の間だ。今だけは呆れた顔で見遣ろう。それだけ強い”守護さん”を連れて、あんたは何処へ行く気なんだい、と。
いよいよ本格的に人霊を視るのだと、期待した顔を浮かべた耀に対して、結界を維持する為に集中している丈弥である。二人の落差もさる事ながら、さえと耀の落差も中々。我関せずと見守る瑞波も、合わせて”ばらばら”な心情だ。
逢魔時で漂っていた不浄な存在は、一度は瑞波の”おかげ”で散ったらしい。一度散った有象無象は瑞波の気配が消えたのを感じ、同じ場所へとそろりそろりと漂ってくる。谷、とはそういう場所で、水辺もまた陰の土地。暗がりを好む者達が、ゆるりゆるりと漂った。
とはいえ、まだ闇が始まって浅い時間だ。妖怪になりきれない、自分が何処へ向かえば良いかも分からない動物霊が、生きていた頃の習性のまま、河原の近くに集まった。
あ……と身を乗り出して、よく視ようとした耀に対し、さえはそのように説明したか。あれは無害だ、ただ漂っているだけさね、と。あと少しすれば次へ向かうだろう、偶に迷う子はいるけれど。人に悪さをするよりも、人の気配に逃げる存在だ。あんまり虐めてやるなよと、しないと思ったが口にした。
ほのかに光るというよりも、透けているのに良く視える。あぁ、これが霊体か、と、狸を思い出した耀だった。あの時、さえに習って視たのと同じ。物凄く怯えられた記憶があるが、死んで間もない善良な動物霊は、生きている頃と同じ姿で、水を飲もうとする姿勢など、ありのまま愛らしいと感じた耀だった。
透き通った小動物に癒やされるのも束の間に、急にそれらが散るように山の中へ姿を隠す。次に水辺に現れたのは、よく分からないもの、だった。
「あれは物怪(もののけ)。良くないものだが、まだ弱い」
「もののけ……妖怪って事ですか?」
いいや、と否定した二人目のお師匠様は、妖怪より劣ったものだが、場合によってはタチが悪い、と。
「一括りにされる場合もあるが、あたしは別もんと思っているよ。人の形に似ているだろう? 人だったものの成れの果てでもある。あれが一番、人霊に近い。近いと言ってもあそこまで形が崩れると、人霊というより物怪だ」
普段は山の中に居て、何の悪さもしていない。あのまま何も無く自然と消えていくものもあれば、怪異となって人々を恐れさせるものもある。
「ぐちゃぐちゃにくっ付いて、離れられなくなってしまうのもいるからね」
言われて、思い浮かんだ、レギオンだ。
「あっ。ちょうど良いよ、あんた。あれを見ていな」
「?」
さえが指差した先に、透き通った人が現れる。
「ありゃ、この山ん中で死んだ人間だろう」
え? と思った耀の目には、透き通っているものの、まだ普通の人間に見える、男が現れたかに見えていた。
男は、ふらふらと藪の中から歩み出て、水辺に手を付き、飲もうと試みる。飲む事は出来たのだろうか、一息つくようでいて、はっと物怪の気配に気付き、体を強張らせたようだ。
それから、バケモノ、と口を動かすようにして、尻餅をつきながら、じりじりと後ずさる。生きているような人間の動きを見遣り、さえは、ありゃあまだ死んで間もないね、と。
段々、人だった頃の記憶は消える。それでも執着を持つのなら、彷徨える霊になるかも知れないが。大抵の人間は、自分が死んだ事に気が付くと、会いたい人に会いに行って、満足するか諦めて消えていくものだけどね、と。
善持の寺の端に埋めた、他所の土地の人間も、暫くは恨み辛みを語っていたけれど、そのうち執着が無くなって、気付いたら居なくなっていた。概ね”さえ”の感覚は、そんな所、という風だ。
離れて”高みの見物”をしていたような二人だが、物怪がゆらりと動き、男を襲おうとする気配を察し、心配する様子をみせた弟子の手前で、さえは”やれやれ”と腕を上げた。
丈弥の結界から手首だけを出すようにして、轆轤首(ろくろくび)ならぬ轆轤腕。それはどうやら彼女の”力”らしい。まるで己の霊体を、使い熟すようにして、死んでまで腰を砕いた哀れな男の幽霊を、むんずと掴むと一気に引き寄せた。
「ジョウヤ、入れてやっておくれよ」
と。
一拍、呆気に取られた丈弥は固まっていたけれど。
『あ、はい。分かりました』
と、やや焦って間口を開けた。
「あんた、運が良かったね」
結界に引き入れられた哀れな人霊は、両手を付きながら、さえを呆けて見上げたようだ。さえを見上げて、耀を見て、首を左右に、不安気に。不思議そうにしながらも、最後は怯えたようだった。
「後でちゃんと送ってやるから、今は騒がず静かにしてな」
釘を刺すようでいて、親切をみせたお師匠様だ。
耀はそんな”さえ”を見ると、矢張りこの人は何だかんだと、優しい人なんだよなぁ、と。
そうして、ふっと圧を感じて、外の景色に視線を移す。
うわ、と叫ばなかっただけ、良しとして欲しいと彼は思った。
空音(うつね)の”戯れ”のおかげも、あったのだろうと思うのだ。
目の前には薄壁一枚で、さえに”物怪”と説明された、よく分からない存在が立っていた。二本の足を持つような、気持ち悪い存在だ。狙った獲物が逃げた先を、追いかけて近くまで来たらしい。
その体は霊体と言うよりも、実態に近かった。透き通っているようで、奥の景色が見えぬのだ。表面は上から下までガサガサに乾燥し、骨が浮き出るようでいて、剥がれ落ちかけた人肌だった。枝のような下肢の上には餓鬼の如き膨らむ腹が。多量の人を喰らったように、ぼこぼこと人面が浮き上がる。まるで自分を抱き込むように、胸で交わる人の腕。首の上には多分、顔。多分、と思うのは抉られていて、目鼻が無いからだ。目鼻が無いのに見下ろすように、頭をゆっくり左右に振った。首を回す方じゃなく、肩の上をなぞるように。
見た目というより動きが奇妙で、耀はそちらが怖いと思う。こちらが他勢側であり、誰も慌てぬから”平気”だろうが。陽炎が立つように、抉れた顔が黒く揺らいで、うぅ……と気持ちを萎えさせながら壁越しに見つめ合う。
相手にはこちらが見えぬのだろう。見えぬが、そこに何かがあるのを察しているようだった。
けれど、それも僅かな間だ。
物怪は足を残して消えた。
消えたと思った足から先は、別の何かに喰われたらしい。あーっはっは! と笑う”何か”が、川から上がって山へ消えた。
爆風だけを感じ取る。結界の外で枝が揺れたから。
「…………」
『…………』
残った足は掻き消えた。
耀と丈弥は硬直したが、さえと瑞波は”慣れたもの”らしい。
「どこの世界も弱きは喰われる。これも山の理(ことわり)だ。良いもんが見れただろ? もう少しすりゃ、上の方から妖怪も流れてくるよ」
楽しみにしていると良い。さえの感覚はそんなもの。
「え……あ、あの、さえさん」
「ん?」
「さっきの……さっきのは……?」
「あぁ、多分、物怪だろう」
「もののけ……物怪が、物怪を喰うって事ですか……?」
「そういう時もあるさねぇ。深く考えても仕方無い」
仕方無い……そんなもの……? 耀の頭は混乱したが、全ては済んでしまった事だ、喰われたものも、喰ったものも、山の中へ消えている。
『吃驚した……』
丈弥が言うから、耀も同意して頷くが。
「おや? ジョウヤは気付かなんだか。ゆくゆくはそうした気配も先に気付かないといけないよ」
守護さんとしての心得というか、守るべきものを守る者として、成長しなければいけない場所を、さえは指摘してくれるらしい。
はっとした顔をして、納得して見えたので、それはそうかも知れないが……と思った耀は、丈弥にばかり負担をかけてもいけないと思うので、俺も油断せず気をつけよう、と気持ちを新たにしたようだ。
その中で、あれは斬れるのか? と、己の太刀を思い出す。
後ろに控える瑞波を見ると、頷きが返された。
それはそうか。あの太刀は、神を屠った事がある。空音(うつね)の腹も切り裂いた。玖珠玻璃が『恐ろしい』と語った太刀だ。
「さえさんはどうやって物怪を相手にするのです?」
「しないよ、相手なんて。あたしにはどうしようもないものだ」
「そうなのですか?」
「どうにも出来ない。せいぜい、今みたいな場所に誘って、もっと怖い物怪に消して貰うしかないかねぇ」
それで人間の身の方は無事かっていうと……まぁ、無事なら儲けもん。こっちの身だって危ないし、わざわざ人里に降りて来ないものを、くっ付けて来る奴だって少ないものね。
「早々に喰われて終わっちまってるよ。もうあちらの住人で、あたしらの領分からは離れてる。元は人だったかも知れないけれど、救えないものは救えない。それでもあれかい? あんたの前のお師匠様とやらは、それをどうにか出来たのかい?」
問われて、黙った耀と丈弥だ。
兄さん達や僧正様ならどうにか出来たのかと問われても、しっかりと奥で守られていた小坊主達だ。元は人だったとして、色々混ざった物怪なんて、相手にしていたかどうかなど分からない。
「今度、会いに行った時、聞いてみます」
何気なく返した耀だった。
あぁそうかい、楽しみにしてる、と言いかけた二人目のお師匠様は、あれ? でもヨウのお師匠様は、死んだんじゃなかったかい? と。
「何だ、あんたのお師匠様は未練でもあるのかい?」
「え?」
「会いに行くって言ったじゃないか。死んだと聞いたと思ったけれど」
それじゃあ化けて出てくるんだろ? 力がある奴が未練を残して死ぬと大変なんだよ、と。
さえの言葉を聞きながら、きょとん、と惚けた耀である。
あぁ、そうだった。こういう話がちゃんと出来る”さえ”さんだ、と。
ふ、と肩の力が抜けた耀だった。
「仕事をしてくれているんです。お山が一つ、穢れ地になってしまったので。それをもうお一人と浄化して下さっています」
どれだけ掛かるか分かりませんが、当分は。
ここでも善持と同じ反応で、目を見開いた”さえ”だった。
「死んでも仕事をしているって言うのかい? はぁーーー……全くね。あんたのお師匠様は働き者だ」
信じられない。あたしゃさっさと逝くよ。仕事なんか生きてる奴がやれば良いんだよ。
投げやりな言い方で、呆れた音を乗せるから、耀は思わず笑ってしまい、良いんですよ、幸せだから、と。
「仕事をするのが幸せかい?」
「まぁ、雪久様なら一理あります。いえ、それより一人きりじゃなく、二人でいられる幸せです。仕事なんて口実ですよ。それを共にする事に意味があるんです」
好きな人と居られるから。むしろ、土地を浄化していく仕事の方は、ついでみたいなものですよ、と。
さえは”好きな人”と聞き、面食らった顔をする。
「坊主と尼僧の夫婦かい」
へぇ、そりゃ、面白い。
何気なく流しても良かった事だが、偶々そんな気分だっただけ。
いえ、と軽く返した耀の目に、川辺に現れた何かが映る。
それから視線を逸らさずに、何気なく口にした音である。
「坊主と坊主の連れ合いです。夫婦と呼んでも良さそうですが、男と男ですからね。ねぇ、さえさん、あれは何ですか?」
「あぁ? あぁ、あれは、川魚(かわうお)の精みたいなもので……」
そのまま自然な流れで続いていくのかと思いきや。
ちょっと待て、と思っていそうな二人目のお師匠様だった。
ちょっと待て。ちょっと待てよ、と、目を泳がす気配があって、どうやらこのお師匠様には無い感覚だったらしい、と悟る。
「好きあっていれば良いじゃ無いですか。別に。好き同士。楽しく暮らしていけるなら」
「あ……あぁ、そりゃそうだ。男と女だからって上手くいくとは限らんし」
「そうですよ。俺だって、男が好きなんですからね」
「うん」
うん、と零してしまった後の、さえの沈黙の長い事────。
「川魚の精って、可愛いですね」
一応、気を利かせたつもりの耀である。
ぽっかりと口を開けたまま、硬い表情のお師匠様が、ゆっくり彼を振り向いた。
「ヨウ、あんた……」
「はぁ。まぁ、そういう事です」
声にならない”さえ”の声音が、山全体に響いただろうと思う。
丈弥はそれを横目にしながら、言わずにいれば良いのに、と。
「余り気にしないで下さい。後ろの男神に惚れているだけ」
平和なもんですよ。
と、あっさりだ。
「なので、人とは婚姻しません」
伝えたい事は”それ”らしい。
お師匠様を味方に、と。
どうせなら、と思ったらしい耀である。
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