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君と異界の空に落つ2 第8話

 その惨状、凄惨たるや……鉄錆の匂いに糞尿の匂いが混ざる。
 人が腑(はらわた)を裂かれた時に、発する匂いである。
 縁側の廊下から踏み入った耀の目に、短刀を手に持った兄弟子の姿が見えた。視線と表情が虚ろな様で、お堂に転がった三つの死体を見遣る。
 一つは和尚。一つは兄弟子。一つは英章の骸に見えた。
 既に息が無い事を察するのは容易くて、開かれたままの目を見れば、その無念さが受け取れる。
 それぞれ胸と、腹と、腰。溢れ出てくるものを、必死に止めようとしたのだろう。固まった体は今も、刺された場所を抱いていた。
 床に広がる血の海は、端が固まりかけていて、てらてらと灯りに返る血溜まりは黒かった。
 耀の足が止まった時、兄弟子は彼が来たのを知った。
 ゆらぁり動いた視線を受けて、見つめ合うしか出来なくなった。
 この時、耀の心は恐れを知らなかったけど、兄弟子が一歩踏み出すと、勝手に足が後ろに動く。

「お前も殺してやる……」
「…………」

 陽岬(ひさき)の目は怖かった。
 声も暗く沈んで聞こえ、駄目だ、と思った耀は引く。
 逃げられる、と感じたのだろう。陽岬の目に生気が戻り、その目の中に逃さぬと、強い意志が灯る気配だ。
 もう三人も殺めた後だ。怖いものなど無いだろう。最後の手負いの童子くらい、簡単に追いついて、切りつけられる筈だった。

『耀!!』

 と瑞波が叫んだ時には、振り返るつもりも無い程に、耀は逃げ出す意志一色で、足にも強い力が入る。
 だん!! と直後に響いた音に、気を取られていなければ。
 絶対、彼は振り返らずに、その場を去っていた筈だ。

「っ………」

 音に驚き振り向いた、耀の目には転んだ人が。
 死体と血の海の滑(ぬめ)りに縺(もつ)れて、足を取られたのだろう。
 縁側から土の庭へ、草履も捨てて逃げるつもりで、飛び降りていた耀の目線とその人の目の高さが合った。
 その時だけ”怖い”と思わなかったのは、恨みの先が自分じゃないから。自分じゃないと気付いたからだ。
 案外と、その人の目は射殺すような視線でなければ、耀の事が憎くて堪らぬ、と、そういう感情も篭らぬものだ。
 ただ、見つかってしまったから、耀を殺めねば、と思う気持ち────。

「…………」
「…………」

 時間にしたらほんの数瞬の事である。
 数秒に満たないような、須臾(しゅゆ)の瞬きの合間において、時間をゆるりと動かすように、その人が自分の足を見た。
 血の海に転がる骸に、腕を立てて、振り向いた。
 這いつくばった足元に、何か、枷を見るように。
 あっ……と思った耀の目に、仏像が倒れ込む瞬間が。
 音を為さぬ空気が漏れて、危ない、の文字が出なかった。喉奥から空気が出たのに、音を為さずに抜けていく。お前はそこで見ていなさい、と、掴まれたようだった。二つの足首を。小さな心臓を。

『っ……!!』

 と、瑞波が、息を呑む音がした。
 何の予兆も見せないままに、ごろん、と倒れた仏像が、自分の足元を振り返る、兄弟子の頭を割った。這いつくばった低い背が、それなりに大きな仏像に、押し潰されるように沈みゆく。
 共に倒れた灯台から火と油が広がった。
 頭をやられた兄弟子は、起き上がる事も出来ないようだ。
 耀が硬直している間にみるみる火の手が延びていく。
 尋常じゃない火の広がりに、預かり知らぬ力を知った。

『耀……』

 か細い声を聞き、やっと彼は体が動く。

『瑞波……』
『私ではっ……!』
『分かってる』
『……え?』
『あれは御仏が……』
『みほとけ……?』

 と。
 瑞波の口が小さく動いたら、火に呑まれる前に、と、耀は捨てていくつもりでいた草履を拾いに戻る。誰の事も助けに行くには遅すぎる光景だから。師匠が持たせた草履を履いて、耀はふらふらと小屋へ戻った。
 自分が放心している事は分かるのだけど、火の手が何処まで来るかも分からない。少ない荷物を纏めると、瑞波へ、忘れ物は無い? と問いかけた。
 門が無くなる雑木林の方へ回って、お寺の正面へ向かって歩く。
 来た時は朱色の門を緊張しながら見ていたが、今、彼の胸に上ってくる感情は、何とも遣る瀬無いような、何処か凪いだ気持ちである。

「お前……」

 声をかけられて、ふと、耀は顔を向けた。

「新しい小僧さんか?」

 火の手が上がるのを知って、駆けつけてきた人のようだ。
 こくり、と項垂れるように耀が返したのを見ると、「中は……和尚様は……?」と、耀の口から聞きたそうにする。
 耀は首を横に振り、絶望的な話を匂わせた。

「お弟子さん達は……?」

 言うかどうするか迷ったが、結局、耀は口籠る。真実は誰の事も幸せにしない時がある。自分が口を噤んだ所で、年相応に見られるだけだ。詳しい事情は自分にも分からぬし、子供が大人三人を殺せるなんて思われない。
 その間に火の手が大きくなって、わらわらと集まり出した集落の人だった。火を消そうにも桶が少なく、川があっても為す術無しだ。急いで消そうとする人もそこには居なかった。寺は集落から離れているので、延焼の心配が無いからだ。
 次々と大人達が様子を見に来るが、その頃には火の手が大きく、とても中には入れない。火に照らされた耀の酷い顔を見て、色々と察した上で、お前は無事で良かったな……と呟く位である。
 その後、有耶無耶にされたくない一人が耀を問い詰めるので、分かりません……と、小さく返したが。その人が納得する筈もなく、共に日が明けるまで待ったのだ。辺りが明るくなる頃に無事に火はおさまった。まだ熱気はあるけれど、大人達と向かった先で、焼かれた体が集まって、重なっている様を見た。
 燃やされた木が冷えるまで、もう一日を要したが、燃え跡から柄(え)の部分が消えた短刀が見つかって、皆、納得するように、その場は収まっていくのである。小僧にも分からない、集落の人にも分からない、何かが原因で、揉めた末の火事らしい、と。
 確かに激しく燃えていたけど、木で炙られた程度では生焼けの肉であり、死ぬ前の様子が分かる。穏やかならぬ死に様と遺体の配置であって、それ以上、想像するのを辞めたかったのかも知れない。焼け爛れた赤い肉と、焦げた黒い肉を見て、感性がまともな大人達は逃げるように去っていく。気の毒だから埋葬しよう、と思って貰えなかった事が、生前の彼らの行いを反映しているようだった。
 耀は何も言えなくなって、無事だった小屋を借り、その日一日を耐えていく。瑞波に預けていたから取られなかった米を出し、小屋の中に転がっていた器を使って脱穀し、雑木林から石を拾って即席の窯を作ったら、井戸から汲んだ水を温め、米を入れて粥を作った。温める間に食べられる野草も採集し、米と同じように隠し持っていた豆味噌も入れていく。
 掃除掃除と追い立てられて、随分意地悪もされたけど……蹴られたり殴られたりと、散々な日々だったけど……まだ此処に来て日は浅く、困った和尚様からも手を出される前だったのだ。
 何も……何も今、終わりにならずとも良かったのに……と。
 随分と静かになった耀を心配するように、瑞波は小さく気を遣い、声を掛けずに側に居た。耀を傷付ける人間達など居なくなってしまえと思うが、それで彼が悲しむのなら、黙っていた方がいいと思うから。
 お堂の火が消えて、炭が冷える一日を、黙々と過ごした二人だった。

 さて、自分たちの墓守りである和尚が居なくなってしまったとなると、困った住人達は、互いに顔を見合わせる。誰もやりたがらない職業だから、押し付け合いも程々だ。ならば住職を頼める人が流れ着くのを待つしかないが、死人はその間も出る筈で、現に三つの遺体がある。
 少し遠いが最寄りの和尚に頼みに行く事にして、嫌なものを見ないように過ごしていた住人達だ。
 鎮火して一晩を置き、炭が冷えたのを知った耀は、日が登ってからは墓地の方に遺体を埋める穴を掘った。小屋に残された道具はあるが、四つ掘るまで二日掛かった。それほど深くは掘れなかったけど、肉が減った体は小さい。持つのもまだ重いけど、小屋の扉を使う事で、運べそうな遺体から、順に埋葬していった。
 お師匠様に貰った着物に炭が付いて汚れた為に、一度川で洗ってしまい、火を焚いて乾かした。残った炭と扉を燃やし、着物が乾くまで、火の前で褌(ふんどし)一枚、背中に寒さ避けの袖を羽織る。からりとした空気と空をぼんやり眺め遣り、気を入れ替えるようにして、もう一夜。
 明くる朝、耀は身だしなみを綺麗に整えて、瑞波に向き合うと『ごめん』と謝罪した。三日程、彼への祝詞を欠かしてしまっていたから、食器に御神酒を少し注いで、二人の間に置いていく。
 瑞波は『いいえ。気にしないで下さい』と、耀へ優しく語りかけたが、一段と凜とした未来の伴侶に見つめられ、胸を高鳴らせるようにして恥ずかしげに座していた。
 ぱん、と乾いた柏手が鳴る。
 自分に祝詞を奏上してくれる、伴侶の声は凛々しいものだ。
 折角貰ったものだから、御神酒にも口をつけた。力の籠った良い酒で、瑞波の体も潤っていく。
 精が飛んだ残りの酒に、耀も口をつけ干していく。少量だから酔う事も無く、人の子の意識だけ、研ぎ澄まされたようである。
 それから彼は墓地へ行き、持たせて貰った線香を焚いた。大僧正様が譲ってくれた、翡翠の数珠も手に持った。
 経文は慣れたものだ。
 山を降りて初めての、ご供養を願う読経だった。
 一人で”りん”を鳴らすのも、一人で全てを読み終えるのも、何もかも初めてだけど身に付いている事である。
 身分の良い人と付き合いのあった師匠のものだ。香の香りは芳(かぐわ)しく、上品に漂った。
 ご遺体がある事を知らせる四つの墓石は、大きいだけの石だけど、意味のあるものである。それの前に一本ずつ線香の残り灰があり、最後に深く合掌すると、耀は気持ちを切り替えた。
 まだ盗られては困る荷物を瑞波に預けると、小分けにした銭の袋を一つ、一握りの米を入れた袋を一つ、来た時と同じようにして手拭いに包み込み、背中に斜めにするように、胸の前で端を結ぶ。
 此処に居る意味が無くなったので、去ることを決めたのだ。

 その日の昼過ぎに、最寄りの寺の和尚を引き連れ、集落の大人達がやってきた。残された小僧の事を思い出したのもあるが、もし和尚さんが良いのなら、この子を引き取ってくれないか、と。僅かばかりだが作物を添えて、お願いしてやるつもりがあった。紹介するつもりで小僧を探したが、既に人の子の気配なくて、静まり返った寺だった。
 耀はその頃、全てを終えて、遠回りにその集落を離れている最中だった。気配が無いのを不思議に思った集落の人達は、敷地を探す中、死んだ和尚と弟子達が、丁寧に弔らわれた跡があるのに気付くのだ。
 火事の最中には殴られ腫らした顔をして、黙っていた童子である。言葉少なに、所在なさげにしていた子供。もし、これをあの子がやったのならば……と、貴重な人間を逃したような気になった。
 来てくれた和尚も驚き、線香の跡を見る。漂う香りを知ると、その小僧、都の出身か? と。美しい弔い方を見て、本当に小僧がやったのならば、余程良い寺の出身か、徳の高い僧である、と。
 偶(たま)に居る、と和尚は語る。
 生まれついてそちらの階を、登ろうとする者が居る、と。
 万に一つ、食料を探しに山へ入ったかと期待をしたが、どんなに彼を待ってみても、戻っては来なかったから。皆、あの小僧が、この地を離れた事を知る。
 それもそうか、と誰もが思う。あのような殴られ方……もし暴力を日常的に受けてしまっていたのなら……それをしていた大人達を弔う方が難しく、心の綺麗な小僧には、此処は地獄の記憶よな、と。
 改めて読経してくれた和尚が去ると、焼け落ちた寺はそのままに、墓だけ使う事にした人達だ。弔う時だけ他所から坊主を呼んで、お堂の再建は諦めた。仏像もそう簡単には手に入らぬ時代だし、皆、自分の生活があるから、そもそもの余裕が無い。いつか流れ着いてくれるだろう、流浪の坊主を待つのみだ。

 少しの口伝になるけれど、耀の軌跡の一つとなる、地方の集落の逸話である。この地方の寺から火が出た時に、和尚と弟子三人が犠牲になった。寺にはもう一人、不遇の小僧が居たが、彼は日頃の恨みも持たず、丁寧に彼らを埋葬したという。きっと彼は生まれついての高僧だったのだろう。その高潔さ、志の高さに与って、私達も善き人でありましょう、と。
 本人の預かり知らない場所で、彼は”始め”を積んだのだ。

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ちかい
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