いつかあなたと花降る谷で 第1話(1)
エージア大陸のスートランド地方、グリッツァー王国の端、光射す渓谷の奥、僅かに岩が迫り出す陰に、ひっそりと家を構えて住んでいる少女があった。
家、と言っても何代も前から、この家の住人が、岩山をくり抜いて作ってきた空間だ。母が亡くなり、父も亡くなって、家人はフィオフィストゥーナだけになったけど、雨も凌げて、畑もあるし、生活に困るような事はない。
それに、普段は隠しているが少女は希少な妖精族。背中には月下美人のような花翅(はなばね)を持っていて、バランスを取る為に伸びた尾翅(おばね)は、海月(くらげ)の口腕(こうわん)のように華やかだ。まるで大輪の花から伸びたフリルレースのようであり、翅を開いた少女の姿は大変美しい。
そんな自分を知らないフィオフィス……フィーナはその日も、いつも通りの生活をして、のんびり暮らしていたのだった。
季節は春で、渓谷の上にあるタタンの丘には、花々が咲き乱れているのだろう。それを背にするようにフィーナの家はくり抜かれているので、透明な窓から外を見遣れば、空からはらはらと花弁が降ってくる。
白に黄色に桃色、青、と。渓谷の開けた方に窓が付いている為に、フィーナが家の中から臨む外の景色は絶景だった。春は花弁、夏は月、秋は紅葉、冬は雪渓、それぞれに移ろう間の景色も美しい。
夕食用のパンを捏ねる間に、何度か視線を奪われ手を止める。
平和な日常。穏やかな時間。
都会暮らしに憧れるでもない、おっとりしているフィーナには、この生活で十二分、他に欲しいものも見当たらない。ともすればつまらない妖生と言われそうだが、人間に見つからないように隠れて過ごす彼女らにしたら、これが普通で幸せで、理想的な一生に他ならないという感覚だったのだ。
長命で数も少ない住人の彼らからしてみれば、たくさん居る人族とは、なんて慌ただしくて争いが好きな種族なのだろう、という所。
過去、付き合いがあった人族を思って、そういえばあれも春だったな、なんて考えた。男の人、だった。美形揃いの竜族よりも美しい人、だった。
美的感覚はあるものの、それなりであるフィーナの私服は、どれも平坦で平凡で、一色か二色の地味なものだ。花柄の布を使ったものは、髪飾りや小物だけ。うるさくないと言えばそうなのだけど、どうしても地味に見えてしまうのは仕方ない。
着飾ればそれなりだけど、まだ異性に興味がないフィーナとしては、これで十分、一人前の気分である。
玄関ドアの近くに置いた鏡に映るのは、銀に近い薄金の髪を結い上げた少女である。鼻筋は通っているけど小さめで、のんびりとした気質が滲む若葉色の瞳が瞬いた。
その視線が自然と下へ行く。
そろそろ捏ねたパン生地をまとめ、発酵させようと考えたのだ。
小麦粉と塩と水、レーズンを使った酵母を混ぜ合わせ、指につかなくなったパン種を入れ物に入れて休ませる。最近は気温もぐっと暖かくなったので、日が射さない棚の上に置くことにした。
容れ物の上に綺麗な濡れ布巾を被せたら、美味しくなりますように、と願いをかける。その、ほんの少しの間。フィーナが外の方から、家の奥、繰り抜かれた岩の部屋へと視線を向けた僅かな時間に、大きな動物が庭先に落ちてきたらしい。
どっ、と普段なら聞かない音がした事に、訝しんだフィーナはひょいと体をそちらに向けた。キッチンの柱を避けるように、外の状況をよく確認するようにして。
果たして、そこには、何か大きな生き物が居た。
初めは微動だにしなかった。
あぁ、あれは昔、見た事があるかもしれない、と。
つい先ほどに思い出した人族の男である。彼もあぁして上の丘から、急に降ってきたのである。足を滑らせてしまった……と力なく苦笑して、フィーナは直感的に「違うな」と思い至った。
そもそも背中側の着衣に乾かない血が滲んでいたのである。肩に刺さった矢も物騒で、足を滑らせてしまったというより「襲われた」と言われた方が納得だった。
でも、目の前の人は滑らせたことにしたいようなので、「はぁ」と微妙な返事をしながら近づいて、大地の力を使って癒してあげた。
妖精族ばかりではなく人族だって、大抵は使える治癒の力だ。
呆けたような、意気を落とした姿の人間を見ていたら、落ち込んでいるようにも見えてきて、フィーナは自分の家に誘った。
怪しい意味ではない。そもそも種族が違うのだし、フィーナの見た目は「少女」である。それも、夜とは縁遠い、陽だまりのような少女であった。家に来て、と言われても、親御さんがいるのだろう、ここに人がいることを知らせたいのだろう、と思う。
だから男の方が一人暮らしに驚いて、フィーナの年端を聞いてから、また驚いた顔をした。妖精族は長命である。だから衰えが緩やかで、少女に見えるフィーナであるが、それなりに歳をとっている。
恋をしたことがないという点につき、妖精族として、彼女は確かに「子供」であるけど、暦を使った年齢は三十歳。対する男は二十八らしく、何処か悔しそうにして見えたので、そこだけは面白かった記憶である。
色々なことを思い出しながらフィーナは近づいて、布の塊が「もそり」と動くのを見遣るのだ。
今回は血が滲むような物騒なものは無いらしい。
布の塊の端から、その人の髪が零れていて、フィーナは途端に警戒心を緩めていった。
「おかえり、マァリ。懐かしいね、あの日の真似?」
フィーナの明るい声を聞き、布の塊が「もそり」と動く。
生白い手が伸びてきて、被り物の類なのだろう、頭からそれを払った人は、そっとフィーナに目を向けた。
ちら、と見上げて、恥ずかしそうに地に伏せる。
ちら、と見上げて、何と言おうかと考える。
冬の雪原より青白い、長い前髪の隙間から、青い夜明けの目が覗く。
フィーナには彼の思考が手に取るように分かったようで、いざ落ちてみたものの、急に恥ずかしくなったのだな、と。
「た……ただ、いま……」
たっぷりと間を置いた後、マァリュファイランは囁いて。
もう一度、おかえり、と言うフィーナが出した手を取って、のっそりと庭先から立ち上がるのだった。
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