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君と異界の空に落つ2 第60話

『うぅん……』
『女神様……!』

 それも彼女の呻きで終わる。
 近寄るのが怖い面々は遠巻きに見ていたが、耀は素早く側に寄り彼女を抱き起こしてやった。もうそれだけで勇気がある……と、皆に思われた事を知らずに、起こした時に、はだけた着物を、さっと直して掛けてやる。
 自分が太刀で切り裂いた着物、僅かに見えた裸体は綺麗で、傷が残っていない事を脳裏に置くと、相手が強い神様で良かった、と。

『あた……! い、いたたたた……!』

 耀に抱き起こされた女神は、大丈夫で御座いますか? と。耀に心配されたのを、意外、と思った顔をした。

『穢れは全て抜け落ちたと思うのですが……』

 具合はどうでしょう? 言葉を聞いて僅かに黙る。
 痛いのは頭の方だ。何か固いものに当たった。額を抑えた女神を見ると、丈弥(じょうや)が『すみません』と謝罪する。すみませんと言いつつも、阿(おもね)る気のない童子である。全く……可愛気が無いねぇ……と思ったが、それでこそ眷属らしい、とも思う。
 ”使い”は主人(あるじ)に似るのである。気位の高そうな祓えの男神より、生まれたばかりの竜神よりも、実は神位のあやふやな子供の方が、余程”位”が高いという事だ。化け物の姿を取った自分にも、恐れず立ち向かい、こうして手を貸す程なのだから。その”使い”が示す態度を見れば、主人が考えている事や、感じている事が分かるのだ。
 いずれ大きくなるだろう竜の子も、自分を知らないだろう祓えの神も、腹の底から登ってくるのだろう、畏れの為に動けぬようなのに。
 悪戯に神威を振りかざすつもりのない女神だが、隠すつもりもない故に、彼等の態度には得心するものがある。自分を怖いと思わぬ男(おのこ)こそ、自分より強い神に成るやも知れぬ、可能性があるからだ。
 生まれ持った”強さ”や積み重なる”箔”があるように、畏れを知らない童子はどうやら、自分より”大きく成る”らしい。まだ弱々しい人の子のくせに……興味を持った女神である。
 ある意味、彼女が生きてきた道も、物言わぬ覇武の道のようなもの。それは女の道であり、強さと美しさ、賢さを試されるようなものだった。どの男神の手を取って生きるのか。多くの女神は彼女を見据え、奥歯を噛んだ顔をした。何も知らぬ小娘は小娘なりに、自分を手にしようとした男神を振り切って、自由の道を勝ち取ったつもりで生きてきたのだ。一等の男神に抱かれるよりも、彼女には大事な”気持ち”があったから。
 そんな女神が気にした男。初めて出会う、興味深い男神の幼体である。
 それは十分な”恵み”であった。
 豊穣の女神が目を掛ける、未だ人の子の、運命の導き、なのである。
 具合はどうか、と聞かれた事を思い出し、彼女は軽やかな声を出し、良いわよ、と返したか。

『私が切れと言ったのだもの。体もとても軽いし、久しぶりに気分が良いわ』

 やっぱり人なんて呑み込むものじゃあ無いわね、と。
 無惨に切り刻まれた着物を変えて、女神はしゃんと神語を語る。
 地味な着物に着替えると、袖で顔を改めた。若い時は美しかっただろう気配が滲む、無難な老婆の顔である。

『化け物よりこっちの方が良いだろね?』

 あっけらかんと女神は語り、栄次に聞くようにする。化け物よりも断然、老婆の方がましである。遠くの襖の影に隠れて、栄次は何度も頷いた。頷いてからそろりそろりと瑞波の後ろへ戻るのを見ると、耀も瑞波も玖珠玻璃も、彼の性格を察した顔だ。
 いつの間に瑞波の後ろから襖の影へ隠れたか。危機回避能力が高いと言えばそうである。新顔の丈弥は黙っていたが、耀の新しい友達を、察した顔をしていたか。

『それにしても……あんた、一体、何で叩いてきたんだい?』

 丈弥の方を不意に向き、女神は素朴に聞いてきた。
 耀は咄嗟の事だったので、詳しい事は何も知らない。目の前の女神と同じ不思議そうな顔をして、腕組みをして立っている丈弥の手元に目をやった。

『経文で御座います』

 こちらもあっけらかんと言う。
 袖の中から出されたものは、読経や写経に使われていた、浄提寺のものに似て見えた。

『所詮は紙の束で御座いますので、傷も残らぬと思いますが……』
『元が紙の束だとしても、気が乗るのでは岩と同じよ』

 半眼見せるようにして、女神は呆れたように言う。
 丈弥は手元の経文を見て、今更、へぇ、と思った顔をした。

『いたた……でも、世話になったねぇ。何か礼をした方が良かろうね?』

 願ってもいない申し出に、早速、耀は頭を下げる。

『生贄の習慣を、辞めて頂けたら嬉しいです』
『もう食べなくても狂わぬし、子供は要らないよ』

 それとは別さね、と、女神は耀が思う以上に、礼をした方が良いのでは、と思っているらしかった。

『あたし、出て行こうかい?』
『え? 何故?』

 と互いに瞬く。

『人を喰ってた神が近くに居たんじゃ、恐ろしかろうもん』
『でも、昔の集落の人に、頼まれて食べたんですよね?』

 そうだとしても、嫌じゃない? 女神の言に”ふるふる”と。

『そこは俺が上手い事、伝えておきますよ。それに女神様が居なくなったら田畑が枯れそうだ』

 居て下さい、と言われた彼女は『そうかい?』と玖珠玻璃を見る。

『あんたの隣に長い事、住ませて貰っていたけどね。嫌だったら出ていくよ。いつでも言いな』
『い、いいえ。むしろ貴女の土地に私が生まれてしまったのでは?』

 邪魔をしたのは私では? と、玖珠玻璃は慄く様子である。知らずに暮らしていたけれど、怖い女神が”お隣さん”では、彼の手足も正直に、少しは竦む。
 畏れる幼竜を下に見ながら、女神は”違うよ”と口にした。

『それは違うよ。大昔、行くあてが無くて此処に来たんだ。こう見えてあたしは地味な暮らしが好きでねぇ。他に神が居ない土地を探してた。此処は良かった。静かでね。隣にあんたが生まれた時は”成る程”と思ったよ。竜神が治める土地じゃあねぇ。そりゃあ他の存在は遠慮する訳だよ、と。ひっそり住まわせて貰ってきたけど……あんたが嫌じゃないのなら、もう少し居させて貰おうかねぇ』

 続けて話した女神である。
 麓の鴨脚(かもあし)も、もう直ぐ目が見える。育ててから行こうかね、と、よく分からない事を言いながら、ふむぅ、と口を結んだ老婆でもあっただろうか。

『女神様、むしろ集落の人々は、貴女からの恩恵を受けるのです。何かして欲しい事はありませんか?』
『あぁ、無い、無い。居るだけで十分。上の祠も取り壊し、無かった事にして欲しいくらいだよ』

 見つかったら嫌だもの。此処だけは素直に”嫌そう”だ。
 だが、そうもいかないと耀は思った。染み付いた習慣を変えるには、代替案が必要だ。急に何も要らなくなったでは、偶々不作が続いた時に、不安になって、愚かな事を、繰り返そうとする者が現れるから。
 自然と神が傍に、暮らす時代になるまでは。あった方が良い規律であって、繋いだ方が良い”感謝の気持ち”。

『祭りが楽しいかと思うのですが』
『まつり? 祀られるのは嫌だねぇ』

 矢張り凪彦が言いそうな事を、嫌そうに呟く女神である。

『そんなに嫌そうな顔をしないで下さい』

 思わず笑った耀に、皆、引いた。
 穏やかに話が出来るとしても、先の姿を忘れる事など普通は出来ぬから。どうしてそうも気安く出来る……と、二人だけの世界に入る、女神と耀を怖く見た面々だ。
 特に、癇癪持ちの女神が多い事を知る瑞波など、敵意を向けられやすいだけ、彼女に近付く事を、ひっそりと恐れたようだった。毅然とした態度は出せるが、寄るか逃げるかは別の話だ。
 耀は遠くで様子を窺う瑞波と玖珠玻璃と栄次に気付かず、楽しそうなのでお祭りにしましょう、と手を叩かんばかりの無邪気を見せた。お祭りと”祀る事”は別ですよ。祠は只の目印なので、そのまま置いて大丈夫。何もして欲しい事が無いのなら、捧げ物は何でも良いでしょう? と、彼女を徐々に追い詰めて、その気にさせていく。
 押し切られそうになっている女神が哀れに見えてきて、近付きたくないなりに、取り持ってやろうかと、そ、と体を近付けた瑞波が居た程だ。

『料理でも、珍しいものでも、舞でも、歌でも、何でも』

 と。
 どうしてそんなに捧げたいのか、女神にはさっぱり分からぬが、生贄を捧げるから、と、頼み込んできた行者と同じ。人の願いを聞いてやるのも”仕事か”と思った彼女である。其処には時の倫理も、人の気持ちも、在りはしない。神なりに人の願いを聞いて、叶えてやろうとする”気持ち”だけ。
 童子の後ろに控えた、祓えの男神の顔を見て、少し恩を売ってやり、付き合いを持つのも良いかもね、と。瑞波程ではないにしろ、同じ神を厭う者同士、何か通じるものでもあったのかも知れない。彼女にしては珍しい”寛容”な心が浮かび、神位のあやふやな童子の言を聞いてやろうと考えた。
 そも、どうして神か人かも分からぬ者が居るのか、と。そうした”都合”にも興味を持った女神である。

『確かに、欲しいものなど無いから、何でも良いような気がするね』
『今年も人が何かやっている、と、横目で見る位で構いませんので』
『そんなもので良いのかい? あたしは何もしてやらないよ?』
『居るだけで恩恵を与えて下さる女神様に、それ以上を望む方が罰当たりだと思います』

 罰当たり……実は神には無い感覚だ。
 原因があり、結果があって、それが罰だとする流れ。これは因果応報を説く仏僧の感覚で、神は気まぐれに事を起こして、結果を人に見せるだけ。其処には良いも悪いも無くて、流れる事象を見せるだけ。齎された結果に対し人は一喜一憂し、守護された、祟られた、と、喜び嘆く訳である。
 気に入った者には力を貸そう。瑞波も耀を大事にしている。女神も耀に興味が向いて、見ていてやろうと思っただけだ。
 手にした太刀にも興味があった。見た事があるような姿だったから。尤も、それを手にしていたのは別の男神だった記憶だが。あれとこれの関係はどのようなものなのだろう。あれのおかげで逃げられた所もあったようなものだから、と、それなりに興味があって太刀をじっと見ていたか。

『どうされました?』
『いいや。見た事があるような太刀だったから』

 ぴくりと動いた瑞波の指に気付かずに、女神の意識は再び耀に向くらしい。

『好し、決めた。あんたの名前を聞こうじゃないか。あたしは空音(うつね)だよ。宇津邇咎根(うつちかのとがね)と言うのだけれど、長いから空音とお呼び。あんたは何て言うんだい?』
『耀と申します』

 宿曜(すくよう)の曜の字の偏を、光に変えた名前です、と。

『耀……黒い光だね。大層な神を背負っているが、あんたが神に成りたいのは、そいつをどうにかしたいという気持ちから?』
『瑞波で御座います、空音(うつね)様。いずれ私の伴侶になります。どうにかしたい気持ちは勿論ありますが、先ずは胸を張り、並び立てればと』
『だけど、そいつは男神だろう?』
『余り気にしておりませぬ。ただ……そうですね……もし空音様が、瑞波を欲しいと思われるなら……』

 やりませぬよ、刺し違えても。
 真顔で返した耀である。

『おぉ怖い……ふぅん、そうなの。あたしは興味無いけどね。そういうあんたの方に興味が向くねぇ。瑞波とやらも満更じゃ無さそうだ』

 瑞波と呼んでも良いかい? と、問われて頭を下げた瑞波である。色付いた頬を隠したい気持ちもあった。耀が”未来の伴侶”として大神に紹介したのなら、従うというか……従うだけである。
 続けて空音は玖珠玻璃(くすはり)を向いて、ただそれだけの行動で、『玖珠玻璃と申します……』と屈服させた雰囲気だ。

『そうかい。玖珠玻璃かい。良い水の気だ。あたしも気分が良い』

 どうやら気に入って貰えた……と、下を向きながら、密かに胸を撫で下ろした竜だった。

『それで、そっちの人の子は……』
『栄次と申します』
『命拾いをしたね、あんたは。まぁ、これも縁だろう。麓に居る間は守ってやるよ。育てる才でもやろうかね』
『いえ、空音(うつね)様、人の子の面倒は私が見ます。どうやら私との縁が太う御座いますので』

 恐縮に恐縮を重ね、玖珠玻璃が女神へ頭を下げる。
 まぁ、その方が良いかもね、と、空音はあっさりと、引き下がる様子を見せた。

『あんたの氏子(うじこ)になる未来が視える』

 坊主、この男を大事にしておやり。
 言い終えたらもう話題には興味も無いようだ。
 凪彦にも少し、こういう所があったのを、思い出していたような瑞波である。大神には先の未来が視えるのだろうか、と。呆けた顔の玖珠玻璃と、栄次を交互に見遣る。

『さて。外は夜だけど……帰るかい? 暗いうちに』
『そうですね……帰るなら、早い方が良いと思いますが……』

 一晩だけでも懐に抱いて頂けると言うのなら、日が登った後に帰りとう御座います。
 夜の山は危ないし、耀には少しだけ、女神に世話になりたい気持ちがあった。申し訳無い気持ちを胸に、下からお願いしてみると、存外、彼女は快く聞いてくれる素振りを見せる。

『俺は家で寝てぇなぁ……耀が無事なら家に帰れるし』
『あんなに怒っていたのに、許してやれるのか?』
『もう良いよ。お前が無事なら。俺も無事なら、家、帰る』

 ちゃんと帰って来るんだろう? と、栄次はやっと近付いて、年相応の顔をしながら耀の顔を覗いたか。

『なら、俺が送ってやるよ。玖珠玻璃様も帰るのでしょう?』

 丈弥(じょうや)が何気なく提案すると、これ幸い、と『頼めるか?』と聞いていく耀である。
 頭の後ろには、瑞波が先に語った言葉。
 眷属が居れば良いのですけど。つまり、貴方に眷属が居たのなら、の、あの言葉がよみがえる。守護が得意、と語った”先輩”だ。ならば栄次が帰るのを、しっかり見守ってくれるだろう、と。

『応。任せろ。朝になるまで、俺も久しぶりの現を楽しんでくるからよ』

 こっちの事は気にすんな、という丈弥の台詞を聞いて、それは眷属である故の、主人の気持ちの筒抜けなのか。それとも、彼が生まれ持つ、察する才であるのか、と。
 玖珠玻璃も丈弥に向けられた言に”助かった”という顔をして、御前を失礼致します、手合わせして頂いて有り難う御座いました、と、随分丁寧な言葉を零し、女神の前から下がって行った。
 知り合いの神の前でも見せた事の無い腰の低さだ。それだけ彼が女神の事を畏れて見たのだろうけど、他との付き合いを知らない耀は特に何も思わない。玖珠玻璃は歳上の神に対して、丁寧なのだな、と。瑞波の例を思い浮かべて、漫然と見ただけだ。

『では、女神様。栄次の事を、外で目覚めさせて頂けますか』

 送ってきます、と語る丈弥を見ると、空音と呼んでくれて構わない、と返した女神だ。

『次からはそのように』
『大仰な使いだね』

 行った行った、と言うように手をひらひらとさせた空音は、自分の屋敷の中から栄次と丈弥とを、出してやって現へと送ってやったようだった。

『さて、あんた達は……』
『一部屋だけ貸して下さい』
『布団は要るかい?』
『面倒で無いのなら』

 面倒なもんかいね、と、折れた腰を表現し、じゃあ、あたしは奥に居るよ、と襖を閉じた女神である。
 瑞波は”泊まりたい”と語った耀を見て、矢張り、あれだけの穢れを飲み込めば……と。純粋に、疲労を労って見たけれど。耀の目的は全く別で、整えられた布団を見ると、空音(うつね)様の気遣いが凄いや……なんて。密かに感心した、なんて事。
 流石、女神様だな、と感じた顔をして、耀はいつの間にか敷かれた布団の上へ、ごろりと転がり、天井を見た。太刀は邪魔だから横へ置く。それを眺めた瑞波がそっと、自分の中へしまったか。
 あぁ、疲れた……と思う気持ちと、久しぶりの布団を堪能する気持ち。
 傍に正座して、自分を見下ろす瑞波を見ると、肩を流れる白髪を取り、指先で弄ぶ。
 ほのかに光る毛を見ると、毛先まで神聖か、と。
 綺麗で綺麗な瑞波を見上げ、触れる……と微笑した。
 艶やかに笑った耀を見て、胸を打たれた瑞波である。ときめいた事を悟らせぬよう、大丈夫ですか? と労った。耀は『また暫く瑞波の世話になるかな』と、そんなつもりは無かったとして、端正な声で囁いたから。世話だなんて……と言いつつも、耀の身を案じた彼は、右手を耀の胸に置き、祓えの意思を落としたか。
 女が子を宿すように、穢れで腹が重くなる耀は、瑞波の清めで少しだけ、その場所が軽くなる。重荷では無いけれど、負荷が掛かるのは同じ事。また暫くは朝昼晩と祓って貰う生活だ。
 だけど今はそれを忘れて、瑞波と触れ合いたいと思った。
 何故か気付いていないらしい、瑞波はとても無防備だ。
 清めが済んだらしい彼は、自然と手を離そうとした。
 その手を取った耀である。はた、と止まった瑞波の顔は、純粋に不思議そうだった。どうしました? と素直に思った顔をして、ゆっくりと引かれるままに耀の胸に抱かれたか。
 頬が胸の上に乗り、髪飾りを解かされて、梳(くしけず)るように指を通され、ぞわりとして気が付いた。

『あ……あの……耀……私……』

 貴方に触れていませんか……? と。
 どうしてか、細く震える声がしたから、色気の類を期待した耀は、思わず噴いてしまうのだ。

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ちかい
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