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君と異界の空に落つ2 第25話

「何だい? あたしゃ今、忙しい」

 切って捨てる女だが、流石弟子、という事か。少しも臆した気配を見せず、「恩返しさせてやって下さい」と。

「恩返しする前に人間の方が駄目になっちまう。仕方ないんだよ、こういう時は」

 これも勉強さね。さえの視えざる力は強い。

「ですが、恐らく、その方が、早くこの方から離れるのではと」
「喋れない相手にどうやって諭しを入れる? 人間だって動物だって諦めが肝心さ。だから結局、力の強い方が勝つ。それが分かって憑いているんだから、剥がされても文句は無い筈さ」
「さえさん……」

 流石、パワーな人だな、と。
 一点の歪みも無く、さえの”道”は真っ直ぐだ。

「触っても良いですか?」

 腰を浮かせた耀が問う。

「おや? あんた、触れんのかい?」
「やってみないと分かりませんが、触れたら引き剥がす手伝いが出来るかも」

 失礼します、と耀は近付き、刀をそちらに動かして貰っても良いですか? と。武士は少し慄くが、刀が近くにあるのなら。弟子の接近を許したようで、後ろに回るのも許したようだ。
 背中に回った耀は、小さな手と爪で必死に男の肩に取り憑いている、狸の腹へ手を入れた。集中しないと姿がぼやけるが、この辺だろうと触りに行くと、ふかふかとする腹を感じる。引き剥がす手が増えた事で、絶望を覚えた”彼”らしい。耀の手の中でぷるぷる震えたようで、それを視たら不覚にも笑ってしまう耀だった。

「大丈夫、大丈夫、ちょっと床に降りて貰うだけだから」

 さえの手に対して、耀の手の力は優しい。
 狸の霊体はぷるぷると震えながら、耀がそっと自分を剥がし、さえの隣に戻るまでを、戻って膝の上に乗せられるまでを大人しく受け入れた。
 男は童子が自分の背後から、何かを持って席に戻る所を見ていたが、本当に何かを抱くように動くから、そこに何かが居るような気分になってきた。虚空を撫でる様も、毛の流れに沿うようで、急に「あっ」と声を出した人である。

「思い出したぞ! あの時の狸か!」
「きっとそうですよ」

 狸の体に繋がった糸、”縁”を遡っていた耀は、雨の日、仕事で山へ出た折に、怪我をした狸に会った男が、それに良くしてやっていた姿が視えていた。手負いの獣は山の中では長く生きられない。最後に良くしてくれた人を思い出した霊体は、何か恩返しがしたいと思い、男の元へ飛んだのだ。
 男の記憶が蘇ると、感極まった狸である。そうです、そうです、あの時あなたに助けて貰った狸です、と。

「ならば恩返しとは……」
「あの後、直ぐに他の動物にやられてしまい、亡くなってしまったようですが……貴方に良くして貰った事を、ちゃんと覚えていたんですよ。自分の食べ物まで与えてあげたでしょう? ただ、さえさんの言う通り、人と動物ですからね。何かしてあげたいと思っても、何が貴方の助けになるのか分かりません。あれやこれやと奮闘すれば、奮闘するだけ貴方には恐怖と映る」
「あぁ! 棚の物が倒れたり、足音が聞こえたり!」
「擦り寄られたりもしたでしょう?」
「した! 何かざらざらとしたものが……! そうか、あれは体毛か!」
「そうです、そうです。結構、人の髪の毛のように硬いですよね」

 硬かった! だがあれは撫でた時の手触りと同じだ! と。狸の話で盛り上がった二人である。
 さえはそれを横で見ながら、これは思ったより凄いね、と。

「お武家様、こうした世界では思い出すのも供養です。ここは一つ、この子の為に、賑やかで楽しかったとか、もし何かして欲しい事があったら頼んでみては如何でしょう? きっと満足して逝ってくれると思いますよ。悪いものでは御座いませんから、何か声を掛けてやって下さい」

 よく見れば顔の良い童子である。それが微笑を浮かべるのであるから、その子供の言う通り、悪くないものだったのではと素直に思えた武士(もののふ)だ。子供に小さな動物を怖がっていたと思われるのも、段々恥ずかしいような気にもなってきた。

「う、うむ。何か……何か、なぁ……」
「そうは申し上げましても、小さな体ですからね。出来る事は限られてくるでしょうけど」

 うぅん……と腕組みをして悩み始めた男を見ると、さえが何気なく「気になる女でも居ないのかい?」と。

「気になる女……」

 少し、狼狽えた男だった。
 子供の耀が見ても、あ、これは、と思うくらいには。

「では決まりですね」

 はい、さえさん、と。
 足の上に乗せている狸を、耀はそちらに渡してやった。
 さえは”ひょい”と片眉をあげると、分かっているじゃないか、と弟子を見た。

「俺は此処から先の事は出来ませんから」
「ふぅん。まぁ、直ぐに出来るようになると思うけどね」

 視えるなら視ときなさいな。狸を受け取った”さえ”が言う。
 さえの狸の扱いは”ぞんざい”で、脇の下に手を入れて、体をぶらぁん、と。いいかい? と脅しから入る形態のようである。

「女。女だ。この人の好い人の事だ。お前も雌に求婚した事があるだろう? 人間の場合はね、きっかけを作ってやれば良い。間違っても鼠や蛙なんか拾ってきたりするんじゃないよ? きっかけだからね、その女の裾を引っ張って気を引いてやったり、この人がその人を助けられそうな時にね、ちょっと気を利かせてやるだけで良いからね?」

 さっきは人の諭しなど……と耀に語っていたくせに、さえは狸を前にして、鬼気迫る勢いを持ち、人語を畳み掛けていく。
 ぶらぁんと垂れ下げられた狸は、時に体を揺らされながら、さえの脅しを聞くようで、さえの説明を聞いていく。分かっているんだろうか……? と、横の耀が不憫に思い、言葉を合わせる”つもり”になって、『きっかけを作ってあげれば良いからね』と。
 ふと耀の方を向いた狸の霊体だから、勢いを無くさない”さえ”の隣で『鼠や蛙じゃ駄目だよ』とも。口元を動かすようで、声無き声を発した童子だ。武士はそれを目敏く見たが、異言を知らない人間である。小声で教えてやったらしい、と解釈をして、そこら辺は子供らしいと思ったようだ。
 狸は”さえ”の方を見て、こくこくと頭を動かした。分かったらしい、と思った”さえ”が、漸く解放してくれる。

「あたしの力を少し分けてあげるから、この人が上手くいったら、安心して上に登るんだよ? 迷ったら戻っておいで。その時は、ちゃんとあたしがあの世に送ってあげるから」

 と。
 最後は結局優しいじゃないか。そう思った耀の隣で、さえは自分の体から光を分けてやったらしい。床に下ろすと両手を見つめ、不思議そうにした狸である。耀は最後に身を乗り出して、頭を撫でてやり。

「足音は駄目、家の中の物を倒したりもしちゃ駄目だ」

 指で歩く音、さえの道具を揺らす真似をして、駄目だよ、と目を合わせ教えてやった。恩返しをしたいと思う位には賢い狸であったので、ふんふんと鼻を鳴らす様子を見せて、分かった、と返したように見えた。
 それから男の方へ行き、膝に乗って肩に乗る。拝み屋と弟子の視線が”それ”を追っている訳で、どうなったのかが男にも少し分かったようだった。

「こ、この辺か?」
「いえ、今はそこに尻があります」
「む? では、この辺か?」
「あぁ、手をかざせば狸の方から合わせてくれるようですよ」
「おう……」

 感動したように男は呟いて、来た時とは違う顔をして満足そうにして見えた。体は疲れているので草臥れている様子はそのままだったが、問題が解決しただけ気が楽になったようだった。
 本当に狸だった、しかも自分に恩義の類を感じていたらしい、と信じられるようになると、そう悪い気もしてこなくなり、いじらしいと思えるらしい。それに元々動物が好きな人なのだろう。好きなものが肩に居ると思うと、怖い気持ちも穏やかな気持ちに塗り替えられるようだった。

「世話になったな。これは礼だ」

 来た時とはまるで違って、微笑まで見せた武士だ。

「ひ、ふ、み、よ……はい、確かに頂戴しました」

 渡された銭を共に数えて、感覚を身につける。さえの仕事、このくらいなら、これだけ貰って良いのだな、と。
 客人は刀を持って立ち上がり、お堂に一礼をして去っていく。
 畑仕事に出てきた善持が男を見て慌てて家に戻り、昼飯にと準備したものを竹の皮に包んだらしい。これは有り難い、と外から聞こえて、寺の門にも一礼をして去って行ったらしい客人だ。

「さえさんの力、凄いですね」
「あんたそれも視えたんかい」

 耀が尊敬した雰囲気で”さえ”の事を褒めるから、褒められ慣れていない”さえ”はというと、嬉しいやら恥ずかしいやら、それでも大人の顔をして耐えていた。

「駄賃をやる。ほら」
「え?」

 銭を一枚くれた人だ。

「こんなには……」
「でも細かい銭なんて持ってきてないからね」

 さえは、ふん、と何の気持ちも無いように出した道具を片付ける。

「どうも有り難う御座います。あのくらいの仕事なら、これだけ頂いて良いんですね」
「難しいとこだがね、人に寄るし人を見る。高くすれば人は来ないし、安くすれば人が来すぎて体を壊しちまうからね」

 変な仕事は受けたくないし。呟かれた一言で、瑞波が”さえ”の事を良い人と言った理由が分かった気がした耀だった。

「あー、疲れた! あたしゃ暫く此処でごろごろしてるから、昼飯の時間になったら呼びに来ておくれ」
「はい」

 どーんと大の字で床に広がる”さえ”だから、全くこの人は……と、理解した気持ちにもなった耀である。確かにあんな事をしていたら”疲れる”と思うから。思うと同時に、浄提寺の外殿から響いていた音を思って、教えられずともそれらの呪文が、自分達の仕事を手伝っていてくれたのだ、し易くしてくれていたのだ、と。そういう意味では、神仏の力を借りねば難しい人等が多く来ていた訳で、今日のような人の場合は町の拝み屋で十分なのだ、とも。
 お堂を出ると、大人しくなった”さえ”の気配を読んだのか、銀杏の木まで逃げていた瑞波がそっと近付いてきた。

『瑞波、俺、可愛い狸を視たよ』
『それは良う御座いました』

 微笑む未来の伴侶である。

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