いつかあなたと花降る谷で 第1話(4)
一人暮らしが長いぶん、フィーナはたくさんお喋りをした。
マァリが居なくなってから、暫く寂しく感じていたこと。まるで聞いたようにして、友達が訪ねてきてくれたこと。フィーナも同じように近くの知り合いの家を訪ねて、寂しさを紛らわせながら過ごしていたこと。
何度同じ季節を迎えたかは忘れてしまったが、少しずつまた一人に慣れて、それまで通りに過ごしてきたこと。
変わったことといえば、畑の野菜を変えたこと。友達を頼り人の集落まで赴いて、人に好まれる野菜の種を分けてもらった、と彼女は言った。
「トマトにじゃがいも、人参にきゅうり、カボチャの種なんかも分けてもらったの。今年も植えたから、一番最初に食べられるのはトマトかきゅうりだと思うのよ」
マァリはどれが好き? という問いかけの中にさえ、自分がいなくなってからも人に歩み寄ろうとしてくれた、彼女の軌跡が見えるから。彼は自惚れそうになる気持ちを隠して、「じゃがいも、かな」と返すのだ。
フィーナは返事を聞いて、じゃがいもをどうやって食べたいか、どう調理して食べるのが好きかを聞いていく。マァリはベーコンと一緒に炒めて、チーズを絡めたものが好みだそうだ。
ベーコンもチーズもここには無いから、そのうち分けてもらいに行こうか、と。フィーナの中で少しずつ、今年の予定が組まれていった。
聞き上手だったマァリのおかげで、自分のことばかり話してしまったかもしれない。寝入る前に寝室で反省したフィーナである。壁の向こうの彼を思って、明日は彼の話を聞こうかな、と。
彼も移動で疲れたのだろう、荷解きをする気配もなくて、そのままふかふかの布団に寝転び、寝入ったようだった。
奥の部屋の方が広いので、交換しようか? と提案したが、マァリは手前の部屋がいい、と譲らなかった。こうしてフィーナは無事だったけど、何か起きた時のことを考えて、自分が入り口に近い方が安心して過ごせるからだ。
マァリがそんなことを考えているとは思わないフィーナだったから、やっぱり交換したいと言われてからでいいかな、と潜り込む。ふわふわの布団をかけるとあっという間に寝てしまう。
それを察してマァリが一人で庭に出ていき作業をするが、ここを出発する前に、仕掛けた魔法は無事なようだった。幸い悪意のある者は、一人も訪れずに済んだらしい。
マァリは「フーッ……」と息を吐き、遠く深く刻まれた、目の前の渓谷を眺め遣る。
距離がなければ視線の先に、この国の王都が見えるはず。
マァリはこの国の民ではないが、人の住む地を疎んだようだ。
別にこの国の誰かから迷惑をかけられた訳ではないが、人を疎むマァリの心が何となく反応してしまう。
丁度、南東を向く渓谷の切れ目に合わせ、丸くなりかけた月が登って、マァリの視線の高さに合った。大きな黄色い光は無になった彼の顔を、それとなく照らしたようだった。
春を迎えて塵を含んだ大気は霞み、丸みを帯びた月も、無になったマァリの体も、どこか朧に霞ませてあやふやなものにする。
無表情のマァリは、妙に恐ろしい雰囲気だった。
その時、谷を登る風が吹き、束ね損ねた頭髪が舞う。
透き通る青白い髪に月の光が射していて、妖精族より幻想的な生き物のように見えていた。
もう一度、フーッ……と細い息を吐いたマァリはそっと、青い夜明けの瞳を閉じて、自分の背中へ意識を向ける。
フィーナが眠る時間に谷から伸びた大きな影が、タタンの丘の方まで広がった。まるで、ここは俺の縄張り、と、影は主張するようでいて。たまたま近くを通った幻獣族が、ひえっと腰を抜かすのだ。
影はすぐに消えたけど、冷え込んだ夜風には、月の光が反射して、煌めくものがあったという。谷には妖精族の女の子が住んでいるが、あれは妖精の翅じゃない、と、見た者は考えた。
もっとずっと大きくて、厳めしい羽である。
たまたま降りてきた竜族が、滑空を楽しんでいたのだろう、と。影が下から登ったことに、気づかずに処理をした。
幻獣族は長命のせいか、どの種族もお気楽だ。
お気楽で楽観的で、あまり深くを考えない。
だからそれを見た幻獣族も気にせず過ぎていき、びっくりしたなぁ、くらいで去っていく。
マァリは人の社会を去ってから、時折こうして「練習」をする。
フィーナにはまだまだ内緒だ。できればずっと内緒にしたい。
助けなきゃいけない時は、使わなきゃいけないだろうけど。他にも内緒にしたいことは幾つかあって、マァリは自分に苦笑した。
フィーナのことは好きだけど、自分のことはあまり話せない。できれば好かれたいから、聞かれたら答えるだろうけど。都合の悪いことは言えないし、言いたいくないこともそれなりにある。
のらりくらりとそれらを躱し、生活していくのだろうと思うのだ。
断崖絶壁に掘られた窓から朝日が差し込むと、いつも通りに起床してフィーナは部屋を出る。顔を洗いに洗面所がある、浴室の方へ向かうのだ。
寝起きでぼんやりしていたので、寝衣(ねまき)のまま浴室へ向かったが、庭に気配を感じたことでマァリのことを思い出した。
途端に、ぱっと気持ちが上がったフィーナである。
そうだ。そういえばマァリが戻ってくれたんだ。浴室からキッチンの方へ抜け、リビングの窓から挨拶をする。
「おはよう! マァリ!」
ふと振り向いた彼が笑う。
「おはよう! フィーナ!」
幾分、距離があったから。
挨拶に満足したフィーナは、浴室の前で顔を洗った。
崖の一部から水が垂れていて、小さな滝になっている。フィーナの大爺様か、大大爺様がそうしたという。小さな滝に合わせるように、水場をそちらに決めたのだ。
風呂に入ってみたければ、筒で誘導してこれる。
キッチンにも洗面所にも、滝に筒を通してあるので、常に水が流れるようになっている。タタンの丘の近くに湖があるために、そこから岩盤を通ってここに出ると聞いている。
顔を洗いに呑気に家の奥へ引っ込んだ、フィーナの姿を見送り、マァリはここでも苦笑した。あの可愛いお嬢さんは、自分を「男」だと認識していないらしい。寝衣の下に、胸の下着はないだろうに、と。
苦笑しながら斜め下から登る、朝日を眺めて過ごした彼だ。
大地の力が保たれている、美しい渓谷も眺め遣る。
沢までどうして降りたかな、と、思い出すようにした彼の側へ、準備を終えたらしい彼女が籠を持って駆け寄った。
「待たせてごめんなさい。こっちよ。覚えてる?」
実はうろ覚えだったんだ、と、マァリが手を出して笑うから。
そういえばこういう人だった、と、フィーナは籠を差し出した。
それから「私も久しぶりに通るのよ」と、人用の道を歩き出し。
「いつもは飛んで降りるの?」
という彼からの質問に。
「そう。翅でひとっ飛び。マァリにも翅があればいいのにね」
無邪気に返すので、「そうだね」と笑う彼である。
飛び移れそうな岩場をひょいひょいと移動して、マァリはフィーナの後ろをついて行った。昔も普通についてきたからフィーナはマァリを「普通」と思うが、実はかなりの身体能力がないとついていけない絶壁だ。
降りる方は楽だけど、登る時はタタンの丘を目指さなければならないし、ちょっと取ってくるだけならば、フィーナ一人の方が効率が良い。それでも彼を誘ってみたのは、散歩がしたかったからであり……籠の中に入れられた小さな鍋とストーブと、コップが二つに、赤い布の塊をみて、彼もフィーナの思惑を察した顔をした。
本当は丘を目指さずとも、マァリは岩場を登ってこれるけど、それを言ったら勿体無いので言わないことにしていたのである。並んで山を登るのも、結構、彼には楽しい時間だ。だから「出来ない」人間のふりを続けている訳で、その無駄な時間さえ大事にしている訳である。
リズミカルに岩場を降りれば、次第に沢の音がする。
過去、マァリが落ち着くために、一晩、世話になった川である。
懐かしい……と思う彼の目に、流れに沿ってたなびくような、水草の群生地が見えてきた。
前を行くフィーナが「あれ、あれ」と指をさす。
頷いたマァリを見遣り、フィーナは最後の岩場を降りた。同じように彼も飛び降り、彼女が向かう場所へ行く。
「半分くらい取りたいわ」
「わかった。半分ね」
中の鍋やらストーブや、コップや朝食を取り出すと、冷たい水に手を入れて節の所で摘んでいく。
「流石に冷た〜い!」
「そうだね、一緒に頑張ろう」
うん! と笑ったフィーナの顔は朝日より眩しく見えた。
こうして二人は黙々と、水菜を籠に積んだのだ。