君と異界の空に落つ2 第17話
春の陽気に緑が揺れる浅い清流を遡る。近くで鶯が鳴くのだろう、細く頼りない音のそれは、まだ上手くない声で、音程も外し気味。けれど世界を彩るには十分な音色であって、耀の心を豊かに飾る。きっと善持も同じだったのだろう、春だなぁ、と嬉しそうに木々を見るので、耀の目より余程春の景色を感じていたのかも知れない。
若葉と枝の間から真っ直ぐ降りる光の筋へ、手を翳したり、目を細めたりして沢の横道を登っていく。あちらの世界に比べたら、どこも綺麗な空気だが、沢の上を流れゆく澄んだ風を吸い込むと、まるで自分の体まで軽くなるようである。
春と言えば花粉症。社会現象とされたそれらも、沢の近くの杉を見やれば縁の無いもののように思える。杉は水を好む性質なので沢の近くにある場合、死を悟る事もなく、少しの子種を吐き出すだけだ。あぁ、あちらの世界はどうして、いつから歪んでいたのだろうか。誰も彼もが生活の為、利益だけを求めた社会の成れの果て。この時代は生活をするにも確かに辛い時代だが、あぁなる前にバランスは取れなかったのだろうか、と、そんな事を思ってしまう。
人は失敗しなければ学べないから、もしかしたらこちらの世界も同じ、その道を歩むのだろうけど。神は居ないとされた時代が訪れていたように、神は居ないとされる時代にこの国が入ったら、この国の神々は、どのように過ごしていくのだろうか。未来を馳せる気持ちになった耀だった。
何かに引き摺られているように、耀の意識が揺蕩った。そこへ不意に瑞波が語る。
『耀、神が居ります』
と。
低く唸るような声だった。
だから彼が警戒しているのが分かったが、今は近くに善持が居るので異言を使う訳にはいかない。うん、とだけ頷いてみせたが、瑞波の視線は厳しいままだ。
前を行く善持の歩みを止めようかとも思ったが、楽し気に進む人の気持ちを折るのは気が引けた。魚籠(びく)を持ってきたからに、獲って帰るのだろうと思うし、料理が好きな人なのだ、きっとその先も楽しみにしている。
理由が理由であるから迷う部分もある訳で、一番は、自分達は付き合ってまだ日が浅い事。自分には憑いている神が居る。その神と話をするのは容易い事だ。その神がこの先に行くのを警戒しているようなので、行かない、という選択は取れるだろうか、なんては聞けない。
そんな事、聞けるだろうか。善持は幽霊も見えない人だ。人魂が飛ぶかも知れない、と語っていても、飛んでいるのを見た事は無いと言う。前任者から聞いただけで、対処法を聞いただけで、それでもどうにもならなかったら近くの拝み屋に聞きに行く、のだと。
耀の師匠は初めから力を持っていた人だから、そういう感覚は無かった人だ。力のある者が集う山寺で、修行もしっかりやっていた。外に出てみて知った事だが、矢張りあの山寺は霊験灼(れいげんあらた)か。風雅(ふうが)が”何だその異種混合”と、客用の外殿の様を茶化して言ったけど、そんなものが無かったとしても十分威厳があったのだ。きっと師匠は”外の仕事”も請け負っていた為に、外からの寺の評判を正しく理解していたのだろう。都の大寺院から、毎年引き抜かれていく先輩方だ。そういう”きちんとした”場所に居る人からしたら、巷の拝み屋なんて頼りになるものじゃない。
それを善持は頼りにしている訳だから、そんな人に急に”神が”なんて通じる話ではない筈だ。悪い人ではないのは分かるし、心も広く見えるけど、前の寺で見たような人の地雷の部分を耀は、未だ善持に見出せずに居て、掴めずにいる感覚だった。
少しずつ”居心地が良い”と感じ始めているだけに、追い出されるのも怖い気がしたし、また一人になるのも……と。側に瑞波が居る筈なのに、思ってしまう所がある。山の温泉も惜しいしなぁ……と、人らしく我欲を思った耀だった。前を歩く善持を見遣り、後ろに佇む瑞波を見遣り。
困った彼の気配を読んだか、瑞波がぽつりと続きを語る。
『水神……』
と囁くように呟いて、水神……けれど、幼い、か、と。
『成りたて……ならば、私の方が』
気配を大きく緩めた、というか、強い気持ちを全面に。瑞波はびしりと耀の後ろで、自分の圧を放ったらしい。
お? どうした? と困惑しながら思った耀だ。まるで彼の行動はガン飛ばし……あるいはメンチ切りに近いものがあるようで、こうした行動に出る彼を見るのは初めてだったから、え? 瑞波……? と別の困惑も浮かび始めた。
言わずもがな、瑞波は”見た目が女神”の男神である。真白の長髪に、すっきり整う美麗な顔つき。薄い模様の入る白い着物の上には絡子(らくす)、その上に絹織物のようなショールを羽織って見えて、袖も裾も品良く捌き、所作の全てが大人しい。胸の膨らみが無いだけで、声が男のそれなだけ。結えた髪には簪が挿さり、耳には耀乃(あけの)が贈った小さな金剛石が揺れている。
普段は耀の後ろに静かに控えているだけで、一歩後ろを付き従う、一昔前の”女房”然だ。行き先も生き方も耀のしたいようにさせ、貴方がそう決めたなら、と微笑して付いてくる。沢山心配もしているし、警戒もしてくれるけど、耀の真後ろに立ってまで圧を放つのは初めてだ。
思えば、この先に神が居る、と言ってきたのも初めてだろうか。彼より弱い神ならば、むしろ彼を避けると聞いた。中々パワーな世界だな、と感じたから記憶に強い。では、今回は、勝手に避けてくれる神よりも、少しか、やや強い神だから、メンチを切っている訳か、と。
さながら瑞波の気持ちとしては、私の方が強い、の脅し。こういう部分もあるのだな、と伴侶の新しい顔を知る。耀は一応、瑞波を見上げ、このまま付いて行っても良いか? と、指だけを動かして伝えたようだ。瑞波は凛と前を見つめたままで、はい、と一つ頷いた。
良い、との頷きを返して貰った事で、一人、楽し気な善持との距離を、漸く詰めていく。清流を辿ってどんどん山を登り、川の始まり、大小の石の隙間を水が流れる場所まで来ると、善持は「ここだ、ここだ」と嬉しそうに耀を見て、ほら、こうして石の裏を返してみるんだよ、と。
浅瀬というより浅い川の始まり、水が大地から滲(し)み出る場所で、善持の指南を受けた耀は、教えられるまま石を返した。瑞波が言う神の気配が感じられなかったから、怖くて隠れたんだろう、と、僅かな憐れみを思いながら。
「あっ、居た! ヨウ、これだ!」
善持は直ぐにそれを見つけた。中くらいの石が重なり合う場所の下。上から押さえつけるように蟹の動きを止めていき、つまむようにそれを捕まえる。
「うわ。本当に蟹さんだ……」
「蟹さん……? 女みてぇな言い方だな……」
「すみません。見るのが初めてで」
噛みません? と聞いてきた耀を見て、善持は少し呆れながら「噛まねぇよ」と魚籠に放る。
「どっちかというと、挟まれる方だな」
「痛いですか?」
「それなりに」
「どうやって持ったら良いのでしょう?」
「胴体を横持ちか、腹の下に指を入れて、表と裏で掴むか、だな」
ハサミが届かない場所を、上手に持てよ、と。
痛いことは痛いけど、千切れる程でもないからな。まるで、慣れろ、と言うように善持は適当な説明だ。
「腹を返して此処で見分ける。丸腹は雌、三角の腹なら雄だ。こいつら春から夏にかけて産卵期に入るから、また暑くなったら取りに来よう。卵を抱えた雌も見せてやる」
捕まえる方は適当なのに、生態の説明は丁寧だ。色々知れて有り難いけど、その差は何だろうかと思う。いや待て、似ている人を知ってる。まさに浮かんだ亮凱(りょうがい)様だ。男親ってこんな感じか、と手前の石をめくった耀だ。
お師匠様は主に知識を、亮凱様は経験を、だ。確かにどちらも大切なので、夫婦揃って子育てと成す。俺は沢山の親を持て、幸せだな、と彼は思った。そこに至る者は少ないけれど、自然と至った耀だった。大僧正様さえも、ある意味、自分の親だったのだ。生きるのは大変な事だけど、導いてくれる人はちゃんと居る。
教えて貰った事を実行するように、ひょいひょいと石を返して蟹を探した耀だった。水は冷たい。早春の湧き水だ。湧き水は一年を通して冷たいものだけど、春の水は特に覇気があるように感じられる不思議である。下の集落の田畑に満ちて、植物の目覚めを呼ぶ水だ。そりゃあ力が必要だ、と、自然と綻ぶ耀だった。
「居た!」
「よし、捕まえろ!」
足が速いから気を付けろ。
声を上げた耀に対して、善持はコツを伝授する。だけど手は貸さないようで、自分は自分の獲物を探す。経験する事に意味があるからで、捕まえて与えるのは”違う”から。
耀は二度、逃げられた。本当に足が速かった。蟹と言えば横歩きだが、カサカサという音よりは、ガササッという音に感じる。そっと手を伸ばしても、危機を感じて消えるのだ。蟹の色が石の色に近い所為もあるかも知れない。水に反射する光に目が眩む間に、彼らは物陰に隠れてしまう。
ただ、そうこうしていても、環境には慣れてくる。目を凝らし、動きを追えば、次の居場所が分かるように。逃げる方向も察する事が出来るようになったなら、知恵を捻って先回りをして追い詰める、という事も。元々、運動も出来る方の耀である。瞬発力を第一に、ごり押しで捕まえてしまう時もあった。
夢中で蟹獲りに興じる様を、やがて善持は見つめるだけだ。子供はこういう所が可愛い。大人のように後先や、予定ばかりを考えて、動こうとする雑念が無いので心が輝いて見えるのだ。水が冷たい事も忘れて、濡れる事も恐れない。自分の子供を持たない善持だけれど、自分の子供のように目を細めて彼を見る。
どれ、暖かいお茶でも入れてやろうか、と。日向で土が乾いた場所まで移動して、その辺に落ちている杉の枝葉を重ねて置いた。懐から石と包丁を取り出して、包丁の背と石を、打ち付けようとした善持である。
『此処で火を起こされては困る』
子供の声がした。
「へ?」
と顔を上げた善持の視線の先に、凛とした男児が立っていた。