君と異界の空に落つ2 第48話
「こっちだ!」
「待て! エイジ! 走るな! 付いていけねぇよ!」
草を蹴散らす音を立て、威勢よく走る”友人”を追う。
浄提寺(じょうだいじ)にはこんなに元気な小坊主は居なかった。走るのが早いと言えば風雅(ふうが)だが、彼とて山の中を激しく走り回ったりはしないのだ。人霊も妖怪も”視える”奴、山暮らしの知識も豊富な奴だった。そんな奴だからこそ、こんな無謀な動きには出ない。危ないからだ。それだけ山には危険が多い。
無謀、つまりは無謀に思える。それ程、栄次の動きは危ういものに見えたのだ。野山を跳ねる兎のように、彼が肉体感覚に優れているのは分かるのだ。後ろから見ていても、跳ねた後の着地が上手い。まるで全身がバネのようで、転んでもころりと起き上がる。
そんな動き、耀には出来ない。とてもじゃないが、追いつけない。追いつけないと注意が出来ない。気を抜くと声も届かぬ距離があく。
初めは耀も「危ないよ」と、普段の声で言っていた。待って、ついていけないよ、危ないからもう少しゆっくり、と。
栄次はそんな耀の事を僅かに確認すると、あからさまに口角を上げて返事もせずに止まりもしない。小枝が張り巡らされた薮を駆け上がり、足元が隠れてしまう熊笹の斜面を駆け降りた。つまり栄次は聞く耳持たず、まるで新しい友人を試しているようである。
先の台詞のように耀の語尾は荒くなり、段々と粗野な言葉が口をつくようになる。それでも改善されない態度に、ついに耀は怒りを感じた。分かった。いいだろう。絶対に追いついてやるからな、と。
追いついて俺の言う事を少しは聞かせてみせる。もう”待って”なんて優しい言葉は吐かず、一段と集中をして栄次に追いつく算段をつけた。枝の広がる藪を見れば、どこが”薄い”か瞬時に計算をする。枝の重なりが薄いところを見つけ、同時に足元の障害物の有無、総合した地面の難度を判別するのである。足元が隠れる場所ならば、”通”の栄次が選んだ道をそのまま辿る。先に彼が安全を証明した場所ならば、そっくりコピーすればよく、危険も少ないと思ったからだ。
耀も肉体条件にはそれなりに恵まれている自負があった。薬も医者も無い時代、怪我をするのを避けていただけだ。無防備になる顔や手元や、足元に小傷を負う覚悟。それを避けただけであり、気にしないなら追いつける。大怪我じゃないならば、直ぐ治ると考えた。多分、それだけの価値はある。俺は早めに腹を決め、栄次の自分への印象を塗り替えておいた方がいい、と感じた為である。
試されているのだ、と悟ったからだ。彼が本当に欲しいのは、自分に付いて来られる存在。同等の能力を持つ”友人”が欲しいのだ。このまま置いて行かれたら、審査に落ちる。落ちたらこの先、永遠に、栄次の舎弟か以下である。それはそれで面白くない。認めさせねばならない、と。
『耀っ!?』
後ろで静止の声を出す、瑞波を今だけ置いていく。そうは言っても神だから、不足なく付いて来ている筈だけど。
ごめんな、とそちらには念を送って、栄次を追うのを優先し、集中力を上げていく。出来る限りは避けて駆けたが、追いつく寸前の枝葉は無視した。頬に当たる枝葉を無視して、足にぶつかる草葉も無視する。
そうして。
「エイジ!!」
ついに耀は追いついた。
ぎょっとした顔を見せたのを一瞬に、二人で足をもつれさせ、そこだけ綺麗に背丈の低い草だけ生える空間に出た。
転がると同時に、身に付き始めた受け身を取った。直前に栄次は焦っていたので、ぺしゃりと地面に背中を打ったようだ。だが、頑丈さも持ち合わせていたようであり、綺麗に身を起こした耀の隣で、直ぐに体制を立て直し耀を見る。
「おまっ、お前っ……!」
「置いていこうとするからだ」
目に力を込めて睨むと、身を引いた栄次だった。
けれど生来の気の強さ故か、持ち直した空気を持つと、即刻、食ってかかって来そうな気配を見せた。
だから耀は更に力を込めて、相手が言う前に言葉を放つ。
「危ねぇだろ! 俺は鍛えているからお前よりは丈夫だが。一緒に遊ぼうとしているのに、勝手に一人で行くのはどういう事なんだ!?」
馬鹿なの? 頭が悪いの? 背丈のある耀からの見下ろしに、栄次が感じた印象はそのようなものである。前日のやり取りで”こいつ、頭は良いのかも”と感じていただけ、劣等感に似た気持ちが浮かんだようだ。
馬鹿にだけはされたくねぇと、内心、燃えた栄次である。付いて来られるとは思わなかっただけ焦った気持ちはあるものの、此処で怯んだら負けだと思い、挑発的な笑みを浮かべた。
「お前が俺の舎弟に相応しいか試してやったんだ! すげぇじゃねぇか! 付いて来た奴は初めてだぜ!」
「エイジ……」
やっぱりか……試したな……? と呆れた耀を見て、俺はまだ負けてねぇ! と吹き返した栄次だった。
呆れた耀は擦り剥いた頬と膝の下が少し痒くなり、あーあ、と薄く切れた傷口を見て聞いてみる。
「いつもこんな遊びしてんのか?」
「しねぇよ。誰も付いて来られねぇから、つまんねぇもん」
「だろうな。それで? 此処まで来て何がしたかったんだ?」
「…………」
僅かに黙った栄次は、耀が”認めた”事を悟った。集落には奔放な自分を肯定してくれる奴は居ない。最後だけ気を抜いてしまったとはいえ、自分の全力に追い付いてきた奴だ。おまけに上背があって賢そうで嫌味な奴だが、やっぱ俺の読みは正しかったかも……! と栄次は気分が上がったようだった。
そうなると途端に耀と友達になれる事が、嬉しいような誇らしいような気持ちになってきた。自分より凄ぇかも知れない奴が自分の事を認めてくれたなら、自分だって凄ぇ奴だと思うから、栄次は自信を持ったのだ。
単純な事である。単純な変化であるが、耀の”だろうな”はそれだけの効果を発揮した。それだけ栄次に並ぶ者が無く、故に、距離を取られていた証拠になるが、高揚した彼には最早、集落の子供からの評価など、どうでも良い気分になっていた。
友達(ダチ)が初めて自分のやる事、為す事に興味を持ってくれたのだ。急にニカッと笑った栄次はその先を指差した。
「栗の木だよ、栗の木、お前に栗の木の場所を教えたかった」
「クリの木?」
指さす方には、立派な栗の木が生えて見える。
草木の低いこの広場には、どんと栗の大木が生えていた。
「あぁ、栗の木か。独特の匂いがするよなぁ」
春に満開になる、栗の花は少々臭い。
顔を顰めた耀を見ず、栄次は嬉しそうに続けて語る。
「こいつがこの集落の山ん中で、一番でかい栗の木だと思う。秋になったら拾いに来ようぜ! こっそり二人で食べるんだ! あと、栃の木の場所も教えたい。どんぐりも。川とか池で魚も獲りたいな! ヨウとなら色んな事して遊べそうだ!」
「それくらいなら集落の皆とも遊べそうに聞こえるけど?」
「駄目、駄目。あいつらビビリだから、山ん中まで付いてきちゃくれねぇよ」
「あぁ、そうかもな。此処はちょっと深いから」
「お前はちっとも怯まないな? 俺に置いて行かれたら、迷っちまうとか思わなかった?」
「思わなかった。そもそも、絶対に追い付くと思っていたから」
「俺をナメてたのかよお前……?」
「違う違う。そういうんじゃなくてさ。絶対に追い付いて止めなきゃって思ってた」
「へぇ?」
「危ねぇじゃん。普通に。俺は山歩きに慣れているけど、山ん中なんて急に崖になってたり、窪地があったり、普通に危ないだろ。悪いものに呼び寄せられたり、喰われたりするかも知れないし。お前を墓に埋めるとか、未だしたくないの、俺は」
分かる? と耀が聞いても、いまいち分かっていなさそうな顔をする栄次だが、そういやお前、坊主の見習いなんだっけ? と思い出し、ヨウってお化け見えんの? と興味津々と聞いてきた。
「視えないよ、人霊は」
「なんだよ、見えないのかよ」
見えたら爺さんがどんな風なのか、聞いてみようと思ったんだけどな、と。余りにあっさりとした応えを聞いて、耀は「あはは」と笑い出し、心残りなく逝ったと思うよ、と。
「見えないのに分かる訳あるかよ。適当な事、言いやがって」
「視えないけどそれくらいは分かるよ。人魂も飛んでいないしね」
未練があると飛ぶらしい、善持さんのお父さんが視たらしい。寺でのちょっとした怖い話をしてやると、へ、へぇ、と威勢を削いだ栄次である。
「あれ? もしかしてエイジ、怖がりなの?」
「違わぁ! 気持ち悪りぃって思っただけ!」
「へぇ。怖いんじゃなくて、気持ち悪いって思うんだ?」
「だろ? 気持ち悪りぃだろ? よく分かんねーもん飛んでたら、怖いより気持ち悪りぃだろうがよ。俺の事よりヨウはどうなんだ? 怖いのか? 気持ち悪りぃのか?」
問われて、うーん、と空を見た耀だった。
「どうなんだろ? 怖い姿をしていたら怖いかも。気持ち悪い姿をしていたら気持ち悪いと思うかも」
「なんだよ、そのままじゃん」
「視た事、無いからね。不気味なものは視た事あるけど、仲間と一緒だったから」
そんなに怖くなかったかも、気味が悪い方かな、と。浄提寺での怪異を思い出した耀だった。
そんな耀があっさり感想を語るから、此処でも負けたような気がして、”こいつ……”と思った栄次だった。怖がっているのを悟られないように、わざわざ”気持ち悪い”と話をすり替えておいたのに。お前はあっさり怖くないと語った上で、気味が悪いと正直に言うのな、と。
収まったかに見えた栄次の聞かん気は、此処でまた頭をもたげて、にやにやとした笑みを浮かべさせた。
まるで気付かないようでいて、察知していた耀である。そもそも、そうした感情は”表に出ない”と、思っているのは本人ばかりなのである。下卑た笑みも同様に。他者には分かり易く見えているものなので、ばれていないと思っているのは本人ばかり也。
良からぬ事を考えていそうだなぁ、と、呆れた耀の顔つきは栄次には分からぬようで、にやにや、うしし、と悪戯を思いついた顔を見せ、全くこいつは……長い付き合いになりそうだ、と。矯正には時間が掛かる、と思わせた。
胡座をかいて膝に肘を乗せ、頬杖をついていた耀である。風が通り過ぎるまま、涼しげな顔をして見えて、余裕のある態度を見ると、焦った瑞波も落ち着いた。
頬や、裾から出てしまう、膝の下の小傷は痛ましい。だが、その赤い線さえも、様になって見えるのだ。心配ではあるけれど、逞しさを感じさせるもの。荒々しい神は嫌いだが、伴侶のそれは魅力に変わる。ぽ、と見惚れた瑞波の想いは、この時、誰にも悟られない。
未だ体にも心にも余裕のある耀と瑞波だった。
栄次の”悪戯”は、此処から発揮されていく。