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君と異界の空に落つ2 第20話

 それを家の縁側から眺めていた善持(ぜんじ)である。
 少し前、小便をしに出ようと戸を開けて、耀の日課を思い出したのだ。畑の奥の肥溜めへ行くには近くを通らなければならず、今日も今日とて楽し気に銀杏と話をしている彼の、邪魔をしてしまうのは気が引けた。それほど切迫していないから、間合いがあればと戻りかけ、ほんまえらい坊主だなぁと呆れ調子に眺め遣る。
 この場合の”えらい”とは、大変な、とか、不思議な、だ。耀の耳には都風にも聞こえてくるけれど、善持は善持でこの地方の言葉を使って考える。銀杏の木と話しているだけなのに、笑ったり、頭を下げたり、座り直したり……何だか大変だな、と。何も視えない善持からして、耀の動きは珍妙だ。他の人なら不気味と思うも、善持の目には可笑しく映る。耀はえらい坊主だが、良い子供だし面白い。さて、あの坊主の目には何が映っているのだろう。同じものを見てみたい、と、思って見ていた善持である。
 遠目に何か決着が着いた雰囲気が漂って、耀は銀杏に向き直り、礼と拍を取ったようだ。大きな声ではないけれど、ぽそぽそと声が続いた。どうも経の類ではない呪文のようだ。祝詞を聞いた事のない善持は、此処だけ気味が悪くなる。ただ、礼と拍を取るのは神さんにお参りする時だから、矢張り、神掛かった何かを奉る意味でもあるのだろうか、と。
 まぁ、立派な銀杏の木だし。
 何気無く思った所で、呪文も終わったようであり、庭へ降りて歩き出す。下の方が限界なので仕方なく降りていくのだが、気の所為か”どきり”とされた気配が漂った。

「風邪ひくなよ」
「え? あ、はい」

 この時代は”風病(ふびょう)”と呼ばれたものだけど、病は全て風病という気配も漂っている、ある意味雑で、含みの多い時代にあたる。単に善持は自然な声掛けの為に言っただけ。この地方の春はそれなり、夜に外に出ていても、風邪をひくような気温じゃない。
 養い親の善持が奥の肥溜めに向かうので、小川に戻った頃を見て、入れ替わるように動いた耀だ。他に何か言われるかな? と少しは身構えていたけれど、善持は欠伸をするだけで、早く寝ろとも言ってこない。男同士の住まいとはこんなものかなとぼんやり思い、自分も用を足した後、小川で手を洗い、そのまま部屋へ戻った耀だった。
 心なしか機嫌が良い瑞波を眺め遣りながら、おやすみ、と声を掛けていく。瑞波はふんわり微笑んで、耀の隣に並んで眠る。神には人のような眠りは必要無いけれど、共に眠る気持ちになって、寄り添う気分を味わう訳だ。
 一度、目を閉じた耀は、眠りに落ちる前に目を開く。ゆっくりと瞬きをして、瑞波の閉じられた瞼を見遣る。そうして直ぐに目を閉じながら、瑞波の言葉を思い出していた。しつこい神が居るのです、と。それはつまりあぁいう事で、いつかは……という事で。渡り合わねばならないのだな、と心に置いた。
 人の世のように暴力があるかは不明だが、凪彦に渡された太刀を思うと”守れるように”と言われているようである。腕の力もつけておけ、と、風雅(ふうが)が言った声が聞こえて、そうだな、そろそろな、と返事をしながら夢へ落ちる。
 翌朝、耀は早速、そうしたものへの準備を始める事にした。まずは三日に一度のお湯入り、足腰を鍛えるための山登りが主である。それからぶら下がるのに良い木を見つけ、腕の力をつけていく事にした。
 善持は先に語った通り「好きにして良い」という風で、言葉に甘えた耀は自分で決めた鍛練を、ひっそりと山の中で始めていった。それでも、数日内に畑仕事を始めた善持を見つけ、開墾の手伝い等も進んで担う。畑仕事も十分な鍛錬であり、言わば全てが筋トレだ。自分達の糧を得る為の大事な仕事、加えて力も付くのであるなら、むしろ率先してこなしていくのが最適だと思われた。
 これには善持の方が驚いて、遊んでいても良いのに、や、随分やる気があるなぁ、と。畑の管理の手間が少し増えるだけ、二人分でも特に困らぬと考えていた善持だから、むしろこれまで怠けてきた分、取り返すようにして、珍しくやる気に溢れていた今春だったのだ。
 子を持つアテの無かった自分が良い子を貰えたのならば、養い親らしく、働くべきだな、と。自分でも怠け気味な人生だと感じていた善持だったから、耀を拾った事で心が”しゃん”とする。なのにその子供の方が働こうとする訳で、えぇ……と、呆れてもいた彼である。
 片や子供の腕として、やる気のある若人の両手は、十二分に開墾を手伝った。寺の北側はなだらかな丘陵で、いつかは田畑にと考えて、株を残してあるだけになる。程よく腐った切り株を抜根するのが初めであって、春の雨が降った後、てこを使って抜いた善持だ。適当な丸太を転がしていき、堅い木の棒を差し込んで、丸太を支点に力を掛けた。
 腐っていても一度では抜けきらない株だから、耀も真似して別の切り株を少しずつ抜いていく。天気の良い日が続いたら、乾いた株に火をつけて、あとは灰にして養分にと言う善持の言に従った。
 余りにも風が強い日は、ぼちぼち休息を取っていき、開墾に都合の悪い日は、元々ある畑の方の手入れをやっていく。種も豆もそのまま蒔いては鳥達が食べてしまうから、初めは家の近くの方にまとめて埋めるようである。そういう意味では善持は割合賢くて、鳥避けの為に葛の蔓を張ったり、着ない服で案山子(かかし)を模したりと、作物が芽を出すまでも大切に育てて見えた。
 耀も畑仕事と鍛錬の合間を見ては、寄ってきた小鳥の群れを散らしたり、彼等が寄ってこないよう巡回を頻繁に行った。芽が出てしまえば鳥達も諦めるようであり、賢いなぁ、と見ていた少年だ。程よく育った後はそれらを植え替えて、夏や秋の収穫に向け、適度な水遣りを行っていく。
 そうした畑仕事の合間に体力が残っていたら、夕刻でも山に入って行って土汚れを落とした耀である。湯に浸かれば英気も養えて、身綺麗にもなるので気分が良い。夜の山は怖くないのか? と、引き気味に聞いてくる、善持に「平気ですよ」と返しながら笑うのだ。
 豪胆というよりは、そちらの力を持つかも知れない不思議な子供という認識だから、平気と言うからに平気なのだろうな、と。しつこい物言いをする善持ではない訳で、気を付けて山を降りて来いよ、と言うに留めた。
 そうして鶯が上手に鳴いて春を謳歌するようになった頃、北の斜面の開墾もぼちぼち、裏山の山菜の恵みも増えて、その日も美味い昼飯にありついていた時間、門より先の庭を人が歩く音がして、それほど待たずに戸を叩く音がする。
 寺に用事がある人間なんて知れている訳だから、仕事の時間か、と、耀は飯をかき込んだ。だのに善持は飯を含んだ顔を、戸口に向けるだけ。気の所為でないのなら嫌そうに眉頭が寄っていて、食事の配分を落とすように面倒臭そうな顔をする。
 戸口を叩く音からすると、女性のものだろうか、と。男女差別をするような人に見えなかった善持だから、客人が女性故、”お座なり”と思いたくなかったが。耀が慌てて戸口へ向かい、戸板を引くと、現れた人こそ驚くように、「ぎゃあ!」と品のない叫びを上げた。
 びくりとした耀だから、その場に固まってしまったが。女性はまじまじと顔を見て、次に奥の善持へと罵倒せん勢いだ。

「ちょっと善持! 何なのさ! あんたに子が出来たと聞いたから、慌てて来てみれば……っ!」
「あーあーあー。煩い、煩い」
「あんた! こんな幼い子供を手籠にしたのかい!?」

 この鬼畜! 鬼畜生が!! 女性は物凄い勢いだ。
 響いた声量が耀の耳を”きん”とさせ、事態を把握出来ないままに狼狽えて後ずさる。

「ちょっと!? 聞いてんのかい!?」
「煩ぇ煩ぇ鬼婆(おにばば)め」
「おっ……あんたねぇ……っ!?」

 ずい、と土間に入って女性は耀の腹を見る。
 随分薄い腹だけど、出来たてなら薄かろう。
 この畜生め、と思っていても彼女の目的は他にある。童女の腹に宿った命が、無事に産まれるかどうか、という。
 急に腹を触られて、びくりとした耀である。後ろの瑞波も”はっ”として、警戒する気配を出した。
 それでも、もしゃもしゃと、飯を食べ続ける善持である。まるで、慣れたもの、と言うように、女のしたいようにさせてやる。
 彼女は暫しそうして、おや? と思った顔をした。

「あんた……子はまだ降りて来て無いようだけど……?」
「勘違いすんな鬼婆。そいつは男だぞ」
「え?」
「そいつが俺の子だ。拾ったんだよ、悪いかよ」

 しん……とした土間の空間に、奇妙な空気が流れた瞬間。
 ばっ、と離れた女性は”じろじろ”、上から下まで耀を眺めた。

「ずっ……随分大きな子供の親になったものじゃないか……」
「別に良いだろ。そこまででかけりゃ、飯を食わすだけでいい」

 飯、と聞いて女性の視線が土間の釜に移動する。
 固まる耀を差し置いて、女性は勝手にそれらをよそったようだ。そうして善持の家に自然と上がり込み、善持が作った昼食を無心で食べ出した。
 え……えぇ……? と引いた顔の耀を見て。

「知り合いの拝み屋だ。偶に来る」

 そう、適当な紹介をしてみせた。

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